~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-78)
翌日の放課後たぇまはラグビー部の部屋へ行った。例の森はもう練習着に着替えて煙草を吸っている。この男は見る時いつも下駄かさもなくばスパイクを履いていた。
「なんだ、昨日はどうした。一日さぼったな。おじけたか」
どやすように言う。武馬はただにやりと笑って着替える。スパイクは森がどこからか一足もって来て貸してくれた。
「そのうち俺がいい奴を選んで買ってやるよ。いつまでも他人の靴てえ訳にはいかねえよ。上は裸でも出来るが靴だけは買えよ」
口は乱暴だがわざわざ膝まずいてスパイクの紐の結び方を教えながら靴を履かしてくれた。
着替えて森と一緒に先にグラウンドに出た。履いたスパイクがかかとをしめつけ足が心持ちよく軽い。
スパイクが校内のコンクリートの道に鳴って乾いた音をたてる。それは武馬には未知の、しかし想像し得るある陶酔とうすいを予感させた。
グラウンドに立ったスパイクは心持ちよくしめった土にくい込む。ショートパンツとシャツ一枚の体は他人のように軽々と感じられた。
「何年ぶりだろう」
「何が?」
「こんな恰好かっこうでグラウンドに立つのがさ。矢張りいいなあ」
「いいだろ」
武馬はやっていたハイジャンプの助走の姿勢で走って見た。脚はそんなに衰えたとは思えない。
「せいぜい走ってくれよ」
言いながら森は持っていたボールを投げる。それを受け取りながらジグザグに走って見る。
主将のホイッスルが鳴り、勢揃いしたみんなが予備運動のために円陣をつくる。
「体操の前に新しい部員を紹介する。坂木、君前へ出て自己紹介しろ」
主将に言われ武馬は前へ出た。親分たちの前で挨拶したのだから運動の仲間の前ぐらいで上ったりすることは全くない。
「文一、9D坂木武馬です。よろしくお願いします」
言って頭を下げる。
「やりそうだね、図太そうだぜ」
横の方で誰かが言った。
その後みんなが一歩ずつ前に出てそれぞれ自己紹介した。
次のホイッスルで体操が始まった。念入りな柔軟体操に体中の筋肉と間接がしまし直していくような気がする。吸い込む空気が柔かく甘かった。武馬はだんだん以前の自分を想い出し、取り戻していくような気がしていた。
パス・ワード、ドリブル、フォーメーション、タックル、それぞれ決められたノルマが繰り返される。
パスの時、一緒に組んだ三年生がラインまで帰ると、
「なるほど君は足が速いなあ」
息を切らせながら感心したように言った。
「そうでしょう」
森が脇で自慢するみたいに言う。
武馬はそう無理して走ったつもりはない。少しばかり自信が出た。
「君は初めてだから回数はイ一、二回ずつ少なめにしろ。最初から無理しなくてもいいぜ」
主将は言ったが武馬は黙ってみんなと同じ数だけやっていった。
その無理がフォーメーションの練習になって出て来た。馴れない仕事を体中の神経と使い慣れぬ筋肉を使って左右に激しく動き廻る内、眼の前が段々に黄色に見えて来る。投げられたなんでもないボールに追いつけず地面に落とした。ハンブルして拾おうとしたはずみに、膝の力が抜けて前に転がって手をついた。
「どうした!」
森が声をかける。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
休むとは言いたくなかった。眼だけは子供の時転んで泣かずに達之助を逆に睨み返したような眼で森を見返した。
2022/05/10
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