~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-79)
口に入った泥でも吐くような顔をして、息をつきながらトラックの横の草むらにつばうを吐くとむかむかしたいたの中の苦い水を武馬は吐き飛ばした。
「ははあ、顔色が青いぞ」
森が近づいて背中をさする。
「だ、だい丈夫だ」
「大丈夫でもないさ。最初から少しはり切りすぎだよ」
「そんなこたあない」
「あるさ」
「畜生」
「強がるな」
戦列に戻ろうとしたがまだ膝がふらついた。
「それみろ」
「畜生、だらしがねえなあ」
「喧嘩みたいにはいかねえよ」
森はからかうように言う。
無理に走りだそうとする武馬へ、
「坂木、後で少し休め!」
笛を吹いて主将が命令した。
矢張り体がなれずに、後は自重して言われる通り練習の回数を落すより仕方がない。
「君なら十日もやりゃ調子が出るよ」
さっきの三年生が言ってはくれたが、武馬はしきりに残念だ。
「試合はのべ九十分やるんだからな。喧嘩みたいにはいかねえ」
森がまた言う。武馬は睨みつけたが、
「さ来いっ!」
パートナーに声をかけた森は次のダッシュに飛び出して行った。
練習最後の、総員一列になっての百メートルダッシュに、
「君はゆっくり流して来い」
主将は言ったが武馬は黙って頷いたまま合図を待った。これだけは全力を上げて走ってやろうと思った。
「ビリけつの奴が今日部屋を掃除しろ」
誰かが奇声を上げ、笛が鳴った。
全員が一斉に走りだした。三、四十メートル、何人かが奇声を上げつづける。五十を越すと声がなく全員が歯を食いしばって懸命に走った。
“手だ、手をふれ、足のきかない時には早く手をふれ!”
以前言われたことを武馬は思い出しながら走った。
懸命に手をふると足がつられて前に出る。
起き上がろうとする体を高飛びの助走でバーを睨み上げる姿勢に倒した。
「畜生!」
横で声がし、武馬は森を抜いた。横目で見て三、四メートル先にトップが三人並んでいた。走りながら足に加速度がつくのが分った。ゴールインしたらへとへとで坐り込むだろう。しかし抜ける!
残り二、三十メートル、七十から八十の間で武馬は先頭に追いすがり、それを抜いた。抜いた後に更に間を開けたまま武馬はゴールラインに躍り込んだ。
「掃除は、誰だ!」
陽の暮れかかっていくグラウンドに、呼吸を整えながら吸い込む空気が一層甘かった。忘れていたものを武馬は段々にひとつずつ想い出していく感慨だった。
「坂木のダッシュは凄いね」
主将の竹島が言った。
「五十を過ぎてからのウェイトがよくかかっていた。全然ハーフバック型だな」
三年生が言う。
「でしょ」
と森が。
「ボールを抱いても、十一秒切れるかも知れないぞ」
「いやあ、もう駄目です」
言ったが悪い気持でなかった。結構やれるぞ、と思った。
「大分無理して、明日は体が痛いぜ」
マネジャーが言った。
2022/05/12
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