~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-80)
帰りに通りかかった野球のグラウンドではまだ野球部が練習をしている。今週は何かの都合で駒場のグラウンドを使っているらしい。練習の仕上げのキャッチボールが薄暗くなりかかったグラウンドの上で交わされている。
横目でそれを見て過ぎながら武馬はふと横手の木の蔭に坐ってそれを眺めている人影の気づいた。
男は見動きもせずじっとグラウンドの動きを見つめていた。足元に鞄と、別に五、六冊分厚い本が置いてある。
彼の視線に気づくと、男は慌てて、が動作は妙にのろのろと鞄と本を取りあげ反対側の方へ背を向けて歩き出した。そうやっている自分を他人に見られたくない様子だった。
しかし武馬はその後姿に見覚えがあった。木立の間を歩いて行く背のひょろ高い後姿は確かに、入学式の時運動部の勧誘場に連れて来られ、言い訳して去って行った去年の甲子園のヒーローの杉に違いない。
確かめるように彼の後姿を眼で追い直したが夕暮にまぎれてもう見えない。武馬は彼が長い腕に尚余るように抱えていた分厚い本を想い出して見た。彼は前以上に猫背に見えた。
杉が入学式の日部員たちの勧誘を断って言った言葉を武馬はよく覚えている。弱気にどもりながら、それでもきっぱりと彼は言った。
「ぼ、ぼくは野球をやりに、こ、この学校に来たんじゃない」
そして、
「── 親父と約束しました。学部で一番にならなきゃ野球はやらないって」と。
恐らくその誓言通りに彼は一番になるべく猛勉強しているに違いはなかった。その後姿は激しい受験勉強の後の入学式の時よりももっと消耗して見えた。
逆に、そのことを想い出して武馬は改めて自分の席次と成績のことを考え直した。近づいた夏休みが終われば、その後には第一学期の試験が待っている。この一学期、いろいろなことをかって来はしたが、勉強の方は余り完璧とは言えない。
「一番にならんでもよろしい、自分で納得のいく成績をとればよろしい」と達之助は言ったがそうなるためにももう少し努力しなくてはなるまいと改めて思いはした。
が、
“杉は一体何をしているんだろう”
武馬は思った。
杉にとって彼の言った親父との約束はどんなものかは知れない。しかし一番になることと野球とをそんな具合に結びつけるのは武馬には合点がいかない。合点がいかないのは武馬だけではなく、当の杉自身もそうではなかろうか。
人に隠れるように、夕暮のグラウンドで他人の義理にも上手と言えない野球の練習を見つめている杉のいずまいはなんとなくもの寂しげだった。
“あいつはきっと野球をやりたいんだ”
武馬は思った。
一番になりたいのと、野球をやりたいのと、その折り合いを自分の中で旨くつけることの出来ない杉が馬鹿正直、と言うよりも矢張り憐れに思える。
「勉強するならなにも大学まで来なくてもいい」と達之助は言った。
武馬は当り前のことのようにそれを聞いていたが、世の中には一番にならなければ野球をやるな、と言う親父もいるのだな、と改めて思う。
自分がグラウンドの上にカムバックした第一日目の感動もあってか、武馬はなんだかその後のを追いかけていって、
「野球をやれよ!」
と肩をどやしつけてやりたい気持だった。
2022/05/12
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