~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-82)
試合の後、来たついでに和久の家へ寄ってみた。
彼は留守で出先からもう一時間ほどしたら港に近い事務所の方へ戻るということだった。
引き止める家の者をことわって出た。山の手をぶらぶら散歩して時間をつぶしながら事務所まで歩いてみようと思った。ハマで有名な外人墓地の見当を聞いて歩いていった。
季節はもう梅雨つゆで運よく雨は降っていなかったが低く曇った空からは今にも雨が来そうだ。日曜の行楽も屋外を嫌ってか、静かな山の手の散歩道にも余り人影がない。
港や横浜の町の見える高台を武馬は気ままにぶらぶら歩いてみた。同じ港町だけあってなんとなく故郷の神戸に似たところが多い。
歩いていた小路のいきつきのところに港を見はるかす小さな遊園地がある。その上側のベンチに武馬は腰を下した。ゆっくり港を眺め渡す。和久の好きな大きな船が今日も沢山着いて見える。曇った空の下に聞えて来る汽笛は憂鬱そうで、また別の風情ふぜいという奴がある。
眼下に拡がる気色を眺め終わって近くに目を戻した時、遊園地の一番がけっぷちのベンチに坐った二人づれが眼にとまった。
そのまま二人を見て過ぎようとしたのだが、なにかで男が立ち上がり、女が引き戻すようにして男を坐らせた時に武馬はその男の後姿に見覚えを感じた。そう思うと何故だか女の方にも見覚えがあるような気がする。
男はありきたりな紺の背広、女は可なり派手はでな着物を着ている。考え直してみてもそんな組み合わせの二人を武馬が東京で知る筈がない。
する内に男はまた一人で立ち上がり前に歩いて行って崖っぷちの石垣に片足ついて立った。
“あいつだ”
その動作で想い出した。男の背はひょろ高かった。武馬がこの前もグラウンドで見たあの杉という男に違いない。それにしても連れに女があり、女の恰好がどうも彼には不似合いだ。
隠れる理由もない。武馬は坐ったまま二人を見ていた。する内に女が立ち上がって横に並んで立つと何かとりなすよう、言って聞かせるように一生懸命に話しかける。杉の方は黙ったまま聞いている。ただ段々例の猫背がひどくなる。もう間違いなくあの杉投手? だった。
しかしどうも妙なことに武馬は女の後姿にも見覚えを感じる。が、男が杉とわかると、彼が女連れでいることだけでも以外であって、相手が誰かは詮索せんさくもつかない。しかしとにかく二人とも後姿が妙に深刻で気になった。女が懸命に何かを言って聞かせる度に杉の方は何も言わずただ黙って頷いているようだ。
相手もお袋、姉さんといった感じではない。とにかく、大学で一番になる、そのために野球をやらぬとまで言った男が、こんな所でしょんぼり女に何か言われながら立っているのはなんとしてもせぬ話だった。
する内、二人は崖っぷちからゆっくりきびすを返して遊園地の入口の方へ戻りかかった。必然武馬の眼の前をすぎる。
じろじろ見るのは変だから武馬もさり気なく二人を見守った。
女は杉の蔭になっている。近づいていき過ぎながら杉は誰も居ないと思った遊園地にいつの間にか人影を見て身構えるような様子だった。彼の眼がちらと武馬の持っていたボールと襟章に走った。
ちらと表情が変わり杉はわざとのように知らぬ顔で眼をそむける。彼が武馬の顔を何処かで知っていたかどうかはわからない。
杉の気配で女の方が咎めるように体を入れ替えて彼を見つめた。
瞬間、両方が、「あっ」と言った。
言いながら女の方は顔を伏せ、眼をそらしたままの杉をうながすようにす速く武馬の前を過ぎて行った。過ぎた後、足早に遠ざかりながら二人で今見て過ぎた武馬について何か言っているのが彼にもはっきりと感じられた。
後姿に見覚えがある筈だ。女は紫雨師匠の家に出入りしているお弟子で、確か雪葉ゆきはという赤坂の芸者だ。武馬が初めてお師匠さんの家を訪ねた時稽古場で例によってお師匠さんに手荒く叱られ顔を染めていただった。それでも紫雨師匠に言わせると筋のいい熱心なお弟子だ。やっと一本になったばかりの、小柄な、悪戯っぽい眼の歯の綺麗な女だった。武馬とも時折顔を合わせて道で行違っても声をかけるくらいの間である。
それがどうしてあの杉とこんな所に居るのか、こいつは全く合点がいかない。いかぬところがその道だよ、とお師匠あたりに言われそうだが、それにしてもあの雪葉と杉との取り合わせはますます奇妙である。第一、一番になるべき秀才がこんな所で芸者と逢引あいびきをしているのは筋の通らぬ話だ。
しかも二人の間は一向に楽しそうでない。女に何か言われながら背を落としてうなずいている杉の後姿は、あの日、グラウンドで野球の練習を一人垣間かいま見ながら立っていた彼よりも元気がなかった。
武馬は立ち上がり、訳のわからぬながら今二人の過ぎて行った方を眺めて見た。何故か、あの杉という男が彼一人では負うことの出来ないものを背負い込んで悩んでいるような気がしてならなかった。
2022/05/15
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