~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-84)
「なんて言うかなあ、あの男、すっかりひしゃげてるんです。そう言ったくらいだから学問にも実力はある奴でしょう。野球は勿論です。それがあんな具合にますます猫背になってにしゃげてるのを見てると、あの男がどこかで道を踏み違えていきづまっているような気がするんです。お節介かも知れないが、入学式の時、あいつを眺めて何かを感じるのはまた何かの回り合わせでしょう。なんとかしてあの男を野球にでも踏み切らしゃきっとあいつのためにも大学のためにもなることなんです」
「なるほど話はよくわかったよ。けれどそれで雪葉のことをどうしようってえんだい?」
「だからそれあ僕にもまだよくわかれんけど、たとえばもし、二人がつまり恋愛をしていててですよ、それが旨くいってないというのなら、そこをなんとか ──」
「それは駄目だね。あんたの言った通り、その二人は恋愛をしていても、いやきっとなにかのはずみにそうなっちゃてるんだろう、けど旨くゆく筈はないね」
「どうして?」
「片方は芸者だよ」
「それだけの理由ですか」
「いえ、ま、昔ならそれだけでも立派に新派の人情話にはばっただろうけれど。雪葉はね並みの芸者と違うの。かかえの家にあの妓自身のことばかりじゃないが今までいろんなことで随分厄介をかけている」
「金ですか」
「まあね。昔しゃ芸者はそれに金縛りで泣いたものだろうが、今日、今は違うと言っても、雪葉の性格ならそれをぽいという訳にもいかないだろうね」
「駄目ですか、無理ですか?」
「駄目だね。なんて、言ったってその二人がまだなんだかよくわかっちゃいないんだろう」
「そりゃそうです。だけらお師匠さんからでも ──」
「あんたは実際おせっかいだね、和久組のことにしたって結局はそうだよ」
言われて武馬はかちんと来た。しかし、まああそういうことにはなるにはなる 。武馬はゆっくり、自分に言い聞かすように言った。
「勿論そうでしょう。今話しただけの関りなら僕も知らん顔ですましてます。でもね、あいつだって去年の夏は甲子園で日本中をうならした男です。そいつが一年たった今、つまらん理由でグラウンドから干上ひあががってしまって、ただしょんぼり人に隠れてグラウンドを眺めているのを僕だけがいき合わせて見たんです。あいつだってきっとやりたいんだ、グラウンドで力一ぱい、握り馴れたボールをキャッチャーのミットに叩きつけたいでしょう。それが何かでどうにもならずにいる。その原因の一つかどうかは知らないけれど、僕は横浜で雪葉さんと一緒に居る彼を見た。それも全然楽しそうじゃなかった。それじゃますますあの男はグラウンドから遠くなりますよ。僕はそれをなんとか元のあいつに引きずり戻してやりたいんです。それはね、旨くは言えないが、つまり、男の、共感てなもんなんです」
「わかった、わかったよ。でもね、そいつあやっぱり無理だろうね」
「どうしてです」
さっきあんたに言った通りね、私あ他人にあよそから知れて来るまでこんなことは言わないよ。あんたがそんな話を出したから言うけど雪葉はもうじき旦那をとるだろう。いやでもとらなきゃならないだろうね。いやでもあの妓は結局自分でそうするだろさ。因果いんがだけどあの子はそんな恩返しをしか出来ない女だよ」
紫雨お師匠は自分の言ったことに眉をしかめるようにして武馬を見た。
「そうですか ──」
「相手が学生さんじゃねえ。あの妓も大方ただの浮気じゃないんだろう。あんたが見て、横浜まで行って逢ってる二人が楽しそうじゃなかったのはきっとそんなことを話し合ってたんだろうよ」
武馬もう一度あの時の二人を想い出してみた。言われてみるとなるほど、テレビでやる新派の芝居の台詞せりふをそのまま言わせてみればあんな雰囲気になるに違いない。
「お師匠さんからあんとか ──」
「どうしろと言うのさ、旦那なぞ取るなと言うのかい。そりゃ駄目だよ。結局は何を言ってもおせっかいということで終わるだろうね。可哀そうに」
お師匠さんは唇を曲げて煙草をひねりつけた。
2022/05/18
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