~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-85)
三日して雨の日学校の構内で武馬は杉といき違った。いきすがった時、杉は半分彼を認めたようだった。何か動きかけた表情がそのまま消えて彼は疲れてたような眼をちゅうに泳がせて通り過ぎた。かさをさし図書館の方へ歩きながらあい変わらず片腕に何冊もかかえた本を落すまいと何度もかかえ直した。その後姿は変にひん曲がって見える。今見た眼つきも半分虚脱し、半分かれたような、どう見ても常人の眼ざしではない。
“馬鹿な奴だ!”
そう思ったが妙に気の毒な気がする。
想い直して武馬は杉の後をつけて図書館に入った。
一番奥の人気のない隅っこに杉は窓に向いて坐っている。のろのろと鞄を開きノートと辞書を取り出し、運んで来た本を同じ手つきで眼の前に拡げておく。そのまま彼はぼんやり窓の外の雨に見入っている・しばらくして何やらノートに書きつけたがすぐ顔を上げたまま雨を眺めた。
武馬の見守る内、同じことを杉は同じ間隔で幾度も繰り返している。何度目かに万年筆を置くと、その手でたれ下がった髪の毛をむしるように後へかき上げ、その一瞬だけす早く、本気で自分の頭をがんと殴りつけた。
武馬は気づかれぬようそっと後を通り過ぎてその手元を覗いて見た。武馬のわからぬドイツ語の同じ文字が二十近くノート一ぱいに書きつけてあった。
武馬は思いついて図書館を出た。その日、水曜日はたしか例の雪葉が午後に稽古にやって来る日だ。
以前、授業を終えて帰ると明子と終りの一番を踊っている彼女を庭ごしに見ていた筈である。
時間を見計らって赤坂に帰った。家を出て坂になる路地の入口で武馬は傘をさして待っていた。
十分ほどして路地の奥に雪葉の姿が見えた。雨の日のもう薄暗い路地に、足袋たびの白さがまず眼にしみた。見上げて見た彼女の頬はもっと白く見えた。
傘を外し、
雪葉ゆきはさん」
声をかけた。顔を上げて武馬を認めた時、雪葉の頬はもっと白くなった。
「雪葉さん、僕です」
武馬は一歩前へ出た。
身構えるような表情が雪葉の顔に走った。
顔見知りとは言え、往来で若い芸者を呼び止めてみるとどうもなんとなく面映おもはゆい。
「先日はおもいがけない所で失礼しました」
武馬の方で言った。言われて雪葉は黙って顔を伏せる。こうやって見ると、すぎほどではないがこの女も元気がない。
「お暇だったら一寸ちょっとお話があるんですが」
雪葉は当惑したような表情になる。
「あ奴の、杉のことなんです」
彼女は眼を上げ驚いたように、次の瞬間なぜかとがめるように彼を見つめたままうなずいた。
武馬は先に立って歩きだし、通りの小さな喫茶店きっさてんに入った。
「杉という奴は、学校じゃおそらく誰も友だちがないと思うんです。ただ僕はあることで彼を知っている。その彼がこの頃全然元気がないのを見ておせっかいみたいだが気の毒で見ちゃいられないんだ。僕から見りゃあ奴は全くつまらん目的を立てて自分で自分を金縛かなしばりにしている。その挙句あげく、この頃じゃいつもぼんやりしていて、今日なぞ図書館で一人ぼさっとしているところなんかまるでノイローゼみたいだった」
雪葉は黙って眼を伏せたまま聞いている。
2022/05/20
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