~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-86)
「僕はね、そんなあいつをもう一度グラウンドに引き戻して思いっきりやらしてやりたいんです。だからもし、それにあなたの力が借りられたらと思って」
雪葉は黙ったままますます眼を伏せたきりだ。
「でもこの前横浜で会った時は、あなたもあいつも楽しそうじゃなかったですね」
思い切って言ってみた。
「私が悪いの、みんな」
突然口走るように彼女は言った。
「どうして?」
「杉さんがあなたのおしゃるようになったのは、私のせいもあるのです」
雪葉は初めて顔を上げて武馬を見た。
「あなたが私たちのことを心配して下さっているのを、たった今お師匠ししょうくさんからお聞きしました」
「そうですか。僕あその、あまり、むすかしいことはよくわからんけど、あの男を引きもどしてやれるならあなたたちのために何でもしますよ」
雪葉は頷き、彼を見ながらゆっくり微笑した。その微笑はどうも、大変さびし気に見えた。
「有りがとう。でも人さまの親切に頼ることが出来ないこともありますわ」
「あなたの場合は?」
雪葉は横に首を振った。
「でももういいんです」
「もういい?」
「ええ、この前横浜でった時に私からあの人によく頼みました。出来なことはしようがないでしょう」
雪葉はもう一度先刻さっきと同じように微笑した。
「わたしからものめり込んだことだけど、もう一度私の方からお願いして別れました」
「え?」
「もうお互いに会うことはありませんわ ──」
「杉はそれを承知したんですか」
雪葉は武馬に向かって何かを言いかけてくちびるをとじるとそのまま下を向いた。
「家のお母さんからもくぎをさされてましたの。でも言われなくたって、元々無理な話ね、とんだ新派しんぱ狂言きょうげんよ。向うもこちらもうぶすぎたって訳かしら」
急にはすっぱになって言った。
「そんな言い方はいけないな。僕は嫌いだ。いろいろ立場ということはあるだろうけど、あなたたちの問題はそういうものをえて考えるべきものじゃないの」
「そうは思っても、結局誰にもそれを出来やしないわ」
「しかし、しかし君がそう言っても杉はそれで心から納得なっとくしましたか」
雪葉は小さく頷いた。
「馬鹿な! 本当にあいつはそれですむんですか。あなただってどうなるんだ?」
「忘れるわ ──」
「忘れる?」
「無理してでも」
「馬鹿な」
「それじゃ、それじゃ誰が、あなたが私たちの間をどうして下さると言うんですの?」
言われて武馬は黙った。
どうもおれは余計な事に首を突っ込み過ぎるとも思った。しかしまた、図書館で見た、半分気ぬけしたような杉を思い出した。かつて武馬もテレビや新聞で見たことのある、あの颯爽さっそうたる杉の長身の面影おもかげは一体どこにあると言うのだ。
「── ほかの人は知りませんが、私には、私一人で形のつかないいろいろなことがあるんです。そんな女を相手にしたあの人の不運なのね」
「そんな君!」
「そりゃ、私だって ──」
武馬の眼に向かって言い返そうとしながら雪葉はあきらめた。
「結局 ──」
言いかけたが結局何を言っていいのかわからなかった。が、
「── 結局、金ですか?」
思い切って言った。
雪葉のまゆが激しく動き、強く問い返すような視線を返しはしたが、次の瞬間その眼は元のように伏せられたきりだった。
雪葉は黙って立ち上がった。眼で追う武馬にゆっくり微笑して、
「いろいろ有りがとうございました」
会釈えしゃくしそのまま店を出て行った。
追っかけてかける言葉のないまま武馬はすわったまま彼女を見送った。
畜生ちくしょう ──」
思わず言ったが、それを直接何に向けていいのかがわからなかったのだ。
2022/05/21
Next