~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-87)
家に帰りおさらいを終えていたお師匠さんにたった今のことを話した。
「こんなことが結局どうにもならないというのは、一体どういうことなんだろう」
「そこが浮世さ。あんたはそれだけでまたひとつ勉強をしたんだよ。あんたの持っているその正義感はね、その内フィジカルな条件が変わり、実社会での人間関係が重なるにつれてもう少しねれたものになって来るのさ」
紫雨師匠は武馬に向かって例の心理学的解釈を加える。
「どういうことです?」
「つまりね言い換えりゃ、そうなることであんたたちは人間の連帯、つまりつながりといいうことの観念を段々くして本当の孤独な人間になるということだよ」
「僕はどうでもいいけど、杉はどうなんです。みじめな話だ」
「なおさら私の言った通りじゃないか」
「雪葉さん、お師匠さんに何か言いましたか?」
「いいや、私がこないだあんたに言っただけのことさ。そんなものあ恋愛のためには本当はなんのかかわりもない筈のことなんだけどね。あんたたちは一本気にそう思うだろう。それはそれでいいの。けど恋愛というものはね、人の世の中の出来事である限り結局二人きりでは出来るものじゃない。成にしろ、壊れるにしろ、考えたくもない二人の外っ側の何かがそれを決めてしまうんだ」
紫雨師匠は煙草たばこに火をつけ吸い込んだ煙をゆっくり出しながら言った。
「だけど覚えときなさい。いくら他の者が気に病んでやっても、不幸せな恋愛てのはね、やってる当人たちが誰よりも、倍も倍もつらいんだよ」
「当り前です」
当り前のことがなかなかわかりゃしないんだ。もっともあんたたちがそんなことにならないように私あ心から願っちゃいますよ」
言われて武馬は頬が一寸熱くなった。
「でもあの二人はどうして知り合ったんだろう。妙といや妙な組み合わせだな」
「案外そんなものさ。杉さんとか言ったねその人、男がそんな具合だから、案外並の素人より芸者ととんとんといったりするもんさ
「けどどうやって ──」
「なんでもこの春先ね、今流行はやりのドライブでさ、雪葉たち若いばかりで車を借りて湘南しょうなんへ行ったんだそうな。この頃の若い妓じゃ三味線しゃみせん持つよりハンドル持つ方がなれてるてなもんだ。出先の鎌倉で車が故障して手がつかずに放り出して、くじで当たった雪葉だけが残ってみんなが誰か人をさがしにあちこち行ったらしいんだ。その時に通りかかった例の杉さんてのかい。その子がのぞいて車を直してくれ運転してみんなの所まで追っかけて行ったのさ。ところがいき違いいき違いでみんなに会えない。雪葉は運転出来ないし、そのまま向うは迷惑なのを無理に頼み込んでみんなを捜しながらなんのこたあない半日二人だけでドライブをやったという訳さ」
「なるほど」
「やっと仲間を見つけてお礼に夕御飯に誘ってさ、聞いて見りゃ大きな病院の後とりで東大の学生さんてことだろう。みんなには文句半分にひやかされてる内に、雪葉は雪葉で悪い気じゃないやね」
「そうだろうな」
「悪いことにあその二人がまた東京のどこかでいき会ったということ。いくら学校で一番になとうてえ学生さんでも男は男だよ。雪葉にしたってお座敷で会う種の相手じゃない。合縁奇縁、それからはとんとんとだあね」
「それが今になってがたんと来たんだな」
「とおう訳だね。なんにしろ聞いて見りゃ雪葉もこのことじゃ随分まじめな気持だよ。それに相手が相手だ。このまま別れるったって、男の方だって並の嘆きじゃすまされまいよ」
「その通りです。今日だって見たら半分病人だな。横浜の逢瀬がやっぱりショックという訳だ」
「そうねえ」
「と言ってないで何か手はありませんか」
「駄目だね。そういうこたあ喧嘩けんか助太刀すけだちみたいににあ簡単にいきあしないよ」
「金か ──」
「やな話だがね」
紫雨師匠は指の煙草を灰皿にひねりつけた。
2022/05/22
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