~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-88)
梅雨つゆの雨が少なく、雨の合間にグラウンドで練習は続けられた。
練習の帰りにもグラウンドのあたりを眺めて見たがもう杉の姿は見かけなかった。武馬は彼があの時どんな気持で仲間の練習を覗いていたのかを想像してみた。
あるいは思うにまかせぬ恋愛を振り切るために野球への熱中を考えていたのかも知れない。しかし、結局彼は代わりに以前の誓言通りにそのエネルギーを勉強にそそぐことに改めて決心したのだろう。
その結果は武馬が図書館で見た、自失してただ雨ばかり眺めているあのなさけない姿だ。」
青春というものはついやされるべきものだ。そのエネルギーの四散する姿が青春なのだ。勉学に、歓楽にそれぞれの青年がが自分の青春を費やしていく。ある者はいきすぎ、ある者は節度し、しかしいずれにしろそれは限られた尊い時間に違いはない。青年の誰が何に向かって自分の時代を賭けるかは彼の決めるところだろう。
しかし、ただ一つ言えることは、歓楽なき青春というものは絶対に有り得ないのだ。
“杉はそれを知る知るべきだ”
武馬は思う。
武馬にもどうとはわからぬにしろ、杉がその恋愛のために今と違って、もっと猪突ちょとつし、攻撃し、自らの身をたたきつけて砕けるというのなら、武馬はそれを許せそうな気がする。他の仲間だって同じだろう。そんな杉を誰も尊敬こそしなくても決して嘲笑わらいはしないだろう。
しかしもし杉が今のまま、自分の青春の大きな出来事をあるものに無理にすり代えて自分の眼をふさごうというのなら、たといそれが成ったにせよ、彼が願った通りに一番の成績を上げたにしろ、それを嘲笑いこそすれ、誰が尊敬を払うだろうか。」
この若い時代にあっては、成績の優の数よりも美しい愛人、たくましい腕力、不道徳な機智といったものの方がはるかに価値があるのだ。
“誰かがそれをあの男に言ってやる必要がある。言葉ではなしに、もっと乱暴に、あの猫背の上の首っ玉をつかまえて小づき廻すようにしてそれを叩き込んでやればいいんだ”
思ったが実際にはどうやっていいいのかは武馬にもわからなかった。
今の武馬にとって、梅雨は一向にうとうしい雨ではなかった。しかしあの杉にとってこの雨はどうにもならぬ気のめ入りに違いない。
甘んじて受け入れ、自分をすり代え、いたずらに考え込むのがどうして青春と呼べようか。
最近グラウンドだけではなく、杉の姿は学校の中でも余り見かけなかった。
杉と同じクラスだというラグビー部の仲間にいてみた。その男は武馬の聞くまで彼がかつての甲子園のヒーローであること知らずにいた。
「あいつがねえ、しかしなんで野球をやらねえんだ」
その男も言った。が武馬は黙っていた。
杉は最近教室にも余り出て来ないという。
「あいつはクラスで幽霊って仇名あだなだったぜ・もつとも当人は知っているかどうか知らねえが」
それから数日して武馬は杉をまた図書館でみつけた。この前と同じように雨が降ってい、夕方になると室内は急に暗くなった。読書している学生たちはみんな眼の前のスタンドをつけ出している。その中で、たった一か所、杉の机だけ明りがともっていな。それでかえって武馬が気づいた。
本を読むでもなし睡るでもなし、机に向かって両手で頬杖ほおづえしたまま、薄暗い机に向かって杉はじっと動かずに坐りつくしている。仲間が言っていた幽霊という仇名に現実感があった。
声をかけようと思ったが何を言っていいかわからず、武馬は黙ってその背を見守っていた。そして杉の後姿には、何かもう他人を寄せ付けないような若さから遠く離れてしまったものが感じられた。
2022/05/23
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