~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-89)
三日して午後部室で、杉の仇名を教えてくれた部員が武馬に、
「おい、幽霊がかれたね」
「──── ?」
「お前友だちなんだろう。知らねえのか」
言って朝刊を投げてよこす。
{三面に出てるよ。昨夜、横浜で、雨の中でタクシーにやられたらしい。本当に幽霊になるんじゃないのかね」
新聞をひったくるようにして見た。仲間が言った通り、
 『東大生自動車事故』
の見出しで杉の事故がしらされてある。
『昨夕七時二十分、県立図書館前の通りで東大生杉××君が坂を上りきり下りにかかった港交通タクシーにはねられた。付近の大塚外科病院に運び込まれたが危篤きとくである。運転手の話によると、視界は良くなかったがその時一台きりの車のライトは見えた筈で、衝突の瞬間、警笛にもかかわらず、同君はすべったようにして倒れ込んだと言う。酔っていたのではないかとその点を調査中 ──』
とあった。
「馬鹿な奴だ!」
思わず声に出た。
記事の最後の数行が武馬の心を捉えた。
“あいつはその瞬間、避けようとせずにそのまま車に向かっていったんだ! そうに違いない!”
と思った
「死ぬんだろうか ──」
「打ちどころさ。危篤だからな」
仲間はこともなげに言った。
「やっとこ大学へ入って、車と衝突でパアじゃ合わねえよな全く」
もう一人が言う。
“馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な野郎だ!”
図書館で見た後姿がもう一度思い出された。
「大塚外科てえのはどこだ」
「見舞いに行くのか?」
仲間が訊いた。
「見舞いにいったところで死んじまってるんじゃないのか」
「可哀そうに、あたら人生を半ば自動車と衝突して死ぬたあな」
「そんなこと言ったってお前ルーズスクラムの中でぼやぼやするな。首の骨くらいすぐだぞ」
仲間は勝手なことを言っている。
武馬は上着うわぎぎかけていた手を置いて考え込んだ。
「練習止めていって見るか? 死んでなくたって危篤てえなら面会謝絶だろう」
「あいつにお前みたいな友だちがいるたあ思わなかったな」
「いや俺より、奴が死ぬならその前に会わしてやりたい人間が居るんだ」
入って来た主将に訳を言って部室を飛び出した。
赤坂に戻りながら、
“馬鹿な奴だ”
胸の中で幾度も武馬は思った。
家へ戻ってお師匠さんに、
「杉がタクシーと衝突して大怪我おおけがをしました。危篤だそうです」
「えっ」
「雪葉さんの家を教えて下さい」
「どうするというの」
「あいつはきっと自分でやったんです。運転手もそうだと言ってます。このまま死んじまうじゃいくら馬鹿でも奴が可哀そうです」
「しかし雪葉はああ言ったじゃないの。あれっきりもう会わない約束をしたって」
「そんなことがなんです。たとい今度が本当の最後になるにしろ会わせてやりた。あおれが当り前の人情でしょう。繃帯ほおたいだらけでベッドに寝ている杉以外に彼女のことはきっと誰も知りゃしないんだ」
「いいだろう、おいき」
「連れてって、危篤でなけりゃ雪葉の眼の前であいつを殴りつけてやりたいくらいです」
地図を聞いて飛び出した。
2022/05/25
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