~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-90)
飛び込んで来た武馬に雪葉の家の者は胡乱うろんな眼を向ける。それでも彼女のいっている美容院でけは教えてくれた。横の通りに可成り大きな美容院がある。広いガラス窓の外から中にいる雪葉はすぐに認められた。
雪葉は真白な顔色で放心したような表情で鏡に向かって坐っている。
表情からして杉の事故を知っていることに間違いはない。たとい青い顔でもそれでいながら化粧台に向かっている女という奴に武馬は瞬間いきどおりのようなものを感じる。
雪葉を確かめ武馬は生まれて初めて美容院の扉を押し入った。鏡越しに雪葉は入って来た武馬を認めた。その瞬間、顔色がsらに真青になる。ふりかえり願うような眼を返しながら雪葉は唇をふるわしたまま武馬を見つめていた。
「雪葉さん急用がある。僕と一緒に来てくれ」
「もう後少しなんですが」
美容師が云う。
「そんなことかまわない。急ぐんだ、さ、雪葉さん」
武馬の剣幕けんまくに店中の者がふり返った。
「いくんだ!」
固いものを飲み込むようにうなずくと、真青な顔色のまますがるような表情で、雪葉はふらふらっと立ち上がった。
「雪葉ちゃん、あんたどこへいくの」
同じ家のねえさんらしい女が横の椅子いす からたずね、とがめるような眼で武馬を見た。
「いくんです。病院へ」
「横浜? あんたこれからのお座敷どうするの」
すがるような眼で雪葉は武馬を見る。
「そんなもの後から断わりゃいい。人が一人死のうとしてるんだ」
立ちすくむ雪葉の手を引っぱって外に出た。美容師はくしとピンを握ったまま、店中の人間が驚いたまま見送っていた。
乗り込んだ電車の中で、武馬に見据みすえられたまま雪葉はおびえたように坐っている。
暫くして、
「僕あ何も言わない。なただって今朝からどんな気持でいたかはわかります。こうやって来てくれたことも、もし間に合わなければ、杉に代わって感謝します」
武馬は言った。その言葉で張りつめていたものが切れたように、声をおさえて雪葉は泣き出した。
「いや、一つだけ言わして下さい。それを言ったってどうしようもないことだけどとにかくあなたのため、そして他のいろいろのことのために、事故じゃない、あいつは間違いなく自分で自動車を避けずにかれたんだ」
同じことを考えていたか、雪葉は黙って顔を伏せたまま肩で頷いた。
「ななんて馬鹿な奴だ。実際怒鳴どなりつけてやりたい。あなたからもあいつを叱ってやりなさい」
応える代わりに雪葉は声を立てて泣き出した。
2022/05/25
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