~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-91)
病院はすぐにわかった。
病院まで来ると雪葉は涙をしまい、緊張で前よりも真青になった。
受け付けの看護婦に案内されて病室の前まで仲間が言った通り面会謝絶の札がかかっている
なんとか会えはしまかという武馬に看護婦は係の医者に訊いてくれて二人を医局に案内した。
医局で部長に杉の容態を訊ねた。杉がまだ死なずにいるのはほとん奇跡的きせきてきだと言う。衝突で頭、肩、胸、腕、そして両脚の骨が砕けている。内臓の障害が比較的少ないのが幸運だったそうな。しかいs小康を得ても尚未だ昏睡こんすいを続けている外部の状況から見ても眠りのさめるのが遅すぎるとそのまま駄目になることが多いと言う。
「とにかく今のところ医者と身内の方以外は入らずに頂きたいのです」
医者は言った。
「そうですか。なによりあいつのためです、無理にとは言いません・けど、僕はいいですが、もし、もし出来たらこの人だけでも入ってただ少しの間彼を見とるというわけにはいきまさんか。僕はまた来れても、彼女は恐らくもう機会がないと思うのです」
武馬と一緒に雪葉は青ざめた顔で頭を下げた。その顔にいわば必死の表情というやつがある。訳はわからぬながら医者にはただでない気配が通じたらしい。
「そう。もう十分ほどしたら夕方の検診にいきます。その時横で見ていらっしゃい」
「ありがとうございます」
雪葉が言った。
十分して医者は副手と看護婦を連れて立ち上がった。二人はその後に従った。
長い廊下を病室まで来ると、部屋の斜め前の廊下で二人の男が話し合っている。片方はしきりに頭を下げ、片方は何かをこらえながらそれでも低い声で語気だけ激しく相手に向かって何かをなじっていた。
医者の姿を見て相手をなじっていた方が目礼して体を開いた。大方それが杉の父親だろう。
医者につづきながら、
「いずれ後程」
残った相手に言う。大方タクシー会社の代表の見舞いだろうか。男は頭を下げ、持って来た果物づつみを椅子に残して帰って行った。
その相手に対してといい、やって来た医者に向かってといい、取り乱していながら杉の父親には妙に威丈高いたけだかなところがある。
医局で事情を聞いていた看護婦が二人を中へ招じ入れた。杉の父親がとがめるような眼で二人を見た。
「御子息のお友だちだそうで、御見舞いにいらした」
二人は会釈したが、武馬には目礼した父親も雪葉には怪訝な表情を向けた。どう見ても杉のbこんな病室に雪葉はちぐはぐに見える。それに、第一彼女の顔の青さが尋常じんじょうではない。
武馬は肩で押すようにして雪葉を自分の前に出した。
目と鼻と口だけ出して後は体中繃帯につつまれて杉は睡っていた。雪葉はまじまじとそんな杉を見つめている。やがてゆっくりとすすり上げ、そのまま声を殺して雪葉は泣き出した。部屋中のものが彼女へふり返った。
一番隅の母親らしい、気弱そうな婦人が驚いたようにいつまでも雪葉を見つめていた。
静かな室内に医具の触れ合う音と医者のしわぶきだけが聞こえている。雪葉は知らずの内に武馬の腕を握って立ちつくしている。
「まだ眼がさめない」
杉の父が言った。
同じ専門医らしく医者と術語を混じえて何か話し合っている。
「ともかくするだけのことをして後は待つだけですな」
医者は言った。
副手が血圧計を計り新しく輸血が行われていく。
と、突然、
「あ」
雪葉が小さく叫んだ。
その瞬間、繃帯にうもれた杉のまぶたがかすかにひきつるようにふるえた。つづいて上唇が何かを求めるように動く。
「静かに!」
医者が言った。
見守るみんなの眼の前で、瞼と唇はその動きを断続した。誰もが固唾かたずを飲みつづける。武馬にすがった雪葉の手に力が入り、知らぬ間武馬はそれを握り返していた。
何かに向かって闘いつづける生命の動きがその真白な繃帯の蔭に今は感じられてあった。
“杉、頑張れ!”
武馬の頬に血が上って来る。
やがて薄く、そして段々に、杉はその眼を見」開いた。声ともつかぬ吐息が唇からもれる。
天井てんじょうを向いたまままぶしそうな眼をゆっくり一度とじると、再度開いた眼で確かめるように周りを見た。
医者、看護婦、父、母、順々に見渡しながら、自分の身に起きたことがらを理解し直していく表情がその眼の中にあった。
その眼は母親を外れ、壁を伝い、ベッドの逆の側にたたずむ雪葉に止った。
達也たつやさん”!」
口走るように雪葉が叫んだ。
「静かに!」
武馬がその腕をとり直した。
杉は長いことまたたきせず同じ眼に見入っていた。その唇が動いた。彼が微笑わらおうとしているのが誰にもわかった。
唇の動きが止り、雪葉を見つめたままの眼に光るものが浮び、やがてあふれて流れる。武馬の腕にすがり直したまま雪葉が嗚咽おえつしていた。
訳のわからぬまま杉の母親も泣いている。父親は訳のわからぬあることを一生懸命理解しようという表情で立っていた。
杉は見開いたままの眼をゆっくりと閉じる。その瞼の蔭から押し流されたものが鼻筋を伝って唇に流れ込む。
も一度眼を開き杉は雪葉を支えて立っている武馬を見つめた。繃帯の蔭にある表情が浮んで過ぎた。
「君は、だらしのない奴だぞ!」
低い声だったが、我慢が出来ずに武馬は言った。
「しかし、とにかく体を直すんだ。みんなそれからのことだぜ」
杉はじっと問い返すように武馬を見つめた。やがてその視線がゆっくりと雪葉に戻る。唇を動かし彼は何か言おうと言葉を探していた。
「静かに、口をいてはいけない。今はただ静かにしている」
おさえるように医者が言った。
頷くようして杉は眼をつむる。医者の処置を受ける間中、時々見開かれる杉の眼はいつも探すように雪葉をとらえては安心したようにまたとざされた。
それを見逃さず待ち受けるように雪葉は身じろぎもせず同じ姿勢で杉を見つめたまま立っていた。
その内に杉はまた睡った。医者にうながされて二人は部屋を出た。
「これでまあ安心ですな。お二人ともいい時にいらっしゃった。いや、患者かんじゃが気づいたのは或いはお二人のお蔭かな。また来て上げて下さい」
医者は言って笑った
2022/05/28
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