~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-92)
二人は両親に目礼し医者について廊下を帰りかかった・
「あ、もし」
後から父親が武馬を呼んだ。
「私は向うで待ってます」
雪葉はそのまま会釈して玄関の方へ離れた。
「どうもわざわざ有りがとう。達也の父です」
彼は言った。
“こいつだな、杉につまらん誓約をさせた父親は”
武馬は思った。
「初めまして。坂木さかき武馬です」
「達也のお友だちです」
「いえ、正確には違います」
父親は驚いた顔をして武馬を見直す。
「僕は杉君を知ってますが、彼が僕の顔は知ってても、名前まで知ってるかどうかはわかりません」
「ほう。それがどうして ──?」
「僕はる関心から杉を時々眺めてました。ある意味で僕は彼がこんな事故を起すのを予感してました。あるいは、彼は不意に来たその自動車を、避ければ避けられたのにその瞬間もうどうでもいいと避けなかったのかも知れない」
「なに」
「いやきっとおうです」
「なぜ?」
「彼は疲れてましたよ。つまらん目的のために自分をすりへらしながら。あなただって知っている筈です。やみくもにただ学校で一番になるなんてのぞみは出来ても出来なくても何の意味もありゃしません」
杉の父親の顔が動いた。
僕はあいつが入学式の時運動部の勧誘をそう言って断るのを側で聞いていました。僕はそれから彼に関心を持ってました。一緒にそれを聞いていた僕の親父は勉強するだけならわざわざ大学まで来なくともいいと言いました。僕は今になってそんな親父を持って幸せだったと思います。もつと も、たとい親父が逆のことを言っても僕は聞くつもりはありませんがね」
杉の父は唇を曲げ何か言いかけて黙った。
「今は余り言いたくありません。今彼を咎めたくはないんです。しかし体がもっと直って来た時に、あいつとお父さんの前で言わせて頂きたいことがあります。あいつと同じ年齢の人間として僕にはあいつのやっていることが馬鹿々々しくて見ちゃいられない、ってより許せません。つまらんことで自縄自縛じじょうじばくして身をすりへらし、あいつはなにもかもみんなあきらめて自分を駄目にしちまおうとしている」
「あなたの言うことは私にはわかるような気がする。しかし ──」
「いいんです今は。もっと後で、あいつが元気になったら僕の言いたいことを聞いて下さい」
「わかりました」
杉の父は言った。
「それからおうかがいしたいのだが、御一緒に見えられた女の方はどなたですか」
武馬は黙って首を振った。
「どうして?」
「杉がよくなったら、あいつの口から聞いて下さい。あいつはそれでも言えないかも知れません。でも言わして下さい」
「なぜ?」
「あなたは杉が恋愛していると言ったら怒りますか」
杉の父は当惑したような表情を浮かべた。予感はしていても、その言葉は矢張やはり心外しうだった。
「杉はあの人を、あの人は杉を、愛してます。しかし多分、それは不可能なことでしょう、いろいろなことで。けど、杉はそれをそれを僕に言わせれば卑怯ひきょうなくらい早くあきらめて自分をだましながら別のものにすり替えようとしました。僕にはそれが許せないような気がします」
父親はb黙って確かめるような眼で武馬を見つめた。
「杉が学校でどんな仇名をつけられてたか知っていられますか。『幽霊』です」
武馬は頭を下げた。
「失礼します。僕はまた来ます。出来たら彼女も連れて」
背を向けて歩き出した。立ちつくしたまま杉の父が自分を見送っているのが感じられた。
雪葉は玄関で待っていた。並んで玄関を出ると立ち止り、武馬に向かって丁寧ていねいに頭を下げる。
「有りがとうございました。本当に ──」
言いながら声がまた嗚咽に変わる。
「僕もお礼を言うよ。来てくれてよかった」
「でも、でも私一体これから先どうすりゃいいんでしょう」
身もだえしながら雪葉は口走るよう言った。
「そこまで僕にあわからない。でも雪葉さん、なんでもやるべきことだけはやるんだ」
2022/05/28
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