~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-93)
帰りの電車の中でも雪葉は黙ったきりでいた。行きと違って何か考えながら心の内で懸命に闘っているような表情だ。武馬は声をかけずにそっとしておいた。
ともかく杉が死なずにいたということは何よりの幸いだ。死んでしまえば武馬の考えていたことはただのおせっかいで終わっただろう。
赤坂について別れる前に、
「とにかく杉がなんとかなるまでには少なくとも一月はかかるでしょう。僕も間もなく夏休みだ。休みが終わる頃にはあいつの体もなんとかなる。それまで、とにかくそれまであなたたちの間を今のままの形で預けておて下さい。杉はあのまま変わらない。後はあなただけだ。
その後どうなるかは僕にもわからない。僕にどう出来ることではないかも知れない。しかし杉という一人の人間をもう少ししゃんとさすために、とにかくそれまでは今のままでいてやってくれませんか、頼みます」
雪葉はうつ向いたまま体で頷いた。
武馬は彼女を家まで送って行った。
「ひどく叱られそうだったら僕が弁解してあやまります」
「いいんです。私が申します」
きっぱりと言った。
「本当に有りがとうございました」
雪葉は丁寧に頭を下げて家の小路へ折れていった。
近くの料亭で三味しゃみの音がしている。武馬は何故なぜか訳のわからぬ憤りのようなものを覚えてしかたなかった。
彼が思いがけず住み込んだ土地に、彼の今まであずかい知らなかった別の世界があるのだ。周囲の世界が変わるにつれてそれも少しは変わったとはいえ、それが別の世界であることに変わりありそうもない。そして、その中に住んでいる者はみんな同じ人間に変わりはない。
その世界の特殊さというものは一体どういうことなのか。それが武馬を含めて他の多くの人間のためにどんな意味があるというのだ。そしてその世界を使い、それを動かす人間たちは世間ではある選ばれた人間として位置され、それで通っている。
“俺たちが拒否しなくちゃならんものは、この世界に多すぎる!”
武馬は思った。
家に帰ってお師匠さんに報告した。
「助かったのかい、そりゃ良かったね」
雪葉の見守る前で杉が眼をさまし彼女を認めて涙したことを話すと、
「矢張りねえ」
お師匠さんは手もなく目頭を圧える。
「それにしても可哀そうだねえ、雪葉も」
「どうしてです」
「そうやって生き死にのことがあったって、駄目なものは矢張り駄目なんだよ」
「しかし ──」
「それじゃその相手のお父っつぁんを口説いて雪葉を落籍ひかせるとでも言うのかい。大学の書生だよ相手は。どんな話せる親でも許しゃしません」
「だから杉のなんとかなるまで、とにかく今のままでいてくれるように言ったんです」
「それでどうする」
「同じ別れるにしたって、方法があるでしょう。そんなことであの男が駄目になっちまわないようにしてやることです。雪葉からもそう言わせます」
「結局は同じことだよ。死んで生き返ったんだ。もうきが落ちたようなものさ。それを高い月謝と言うんだよ、色事のね」
「しかしこんどは雪葉が思いつめちまったらしい」
「知らないよ私あ。なんか起って尻をもってこられたって。本当にあんたはなんかことを起す人だねえ」
紫雨師匠は吸っていた煙草をぽんと捨てた。
「ま、いいさ。雪葉だってそんな苦労があればいい芸者になるだろさ。当節若い子は色事じゃさばけすぎて味もそっけも無さすぎるよ。
2022/05/29
Next