~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-94)
梅雨が明ける前に夏休みがやって来た。
帰心はやってか気の早い学生は休み前に帰ってしまい。最終日の学校は生徒の数がいつもより随分少なかった。
午休ひるやすみの食堂で、
「いつ帰る?」
武馬に和久わくが訊いた。
明日あす明後日あさって
「早いんだな」
「休みになりゃ東京に用事なんかない」
「そんなんことないだろう」
入口の方を眼でさして言った。誰かを捜すような表情で明子が入って来た。武馬が何か言う前に和久が立って手を上げた。
明子はその合図に気づいた。
「有りがとうと言え、こら」
テーブルにやって来て、
「いつお帰りになるの」
明子も同じことをたずねた。
「東京にはもう用なんかないそうですよ」
和久が横から言う。
「二、三日の内に帰ろうと思ってます」
「そう ──」
明子は何か言いかけた表情で黙った。
「何か用事ですか」
「いえ ──」
「お宅になんかあるんじゃないの」
明子は黙って眼を上げて武馬を見た。
「いえ、ただちょっとありそうなの。でももっと先のことですわ、きっと」
「何だか知らないけれど商売の方の相談なら僕なんぞより和久の方が頼れるか知れない」
「そうそう、休み中じゃなくて、ずうっと僕が用心棒びなる」
「そういう言い方をするなよ」
「あははは」
和久は笑った。
「本当に何かあったら、僕でよければ言って下さい、坂木には及ばずながら」
和久は神妙に頭を下げる。
「お店の方はうまくいってるんですか」
「ええまあ」
「お姉さんも大変だ」
「それより、お帰るになる日お見送りするわ」
「ははあそれが主用か」
和久に茶化ちゃかされて明子は黙ったまま頬を染めた。
「だっていろいろお世話になりましたもの」
「随分他人行儀ぎょうぎだな。でも、それなら僕の方だ」
「いやそうとなりゃ、僕も武馬君の壮途を送らなけりゃならん」
「壮途? ただ帰るだけだよ」
「向うでまた何かあるだろう。親父さんもいりことだし、台風の目がそろうようなものだ」
「お父さまによろしく」
明子が言った。
「お姉さんに、あのことは?」
明子は黙って首を振った。
2022/05/30
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