~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-95)
途中横浜で杉を見舞うために予定の急行より二時間先に東京を出た。言った通り明子は東京駅まで送りに来た。
「私あ行こうと思ったけど、やめましたよ、気を利かしてね・・・」
家を出しなにお師匠さんが言った。
「一か月半か ──」
電車を待ちながら武馬が言った。
「すぐね。でも地方の人はいいわ、お休みが倍も楽しみでしょう」
「そうでもない」
実際、明子とこうしているとそんな気持になる。
“俺はこの一学期、実質的に彼女に対して何をしたかな”
そう思うと一か月半のブランクが急に不安に思えた。
「夏休みの計画は」
「別に」
「私も、休みの間くらいせいぜい姉さんを手伝うわ」
“それがいい”
と口まで出かかったが、止めた。
「合宿は?」
「休みの終り頃山中湖の寮で」
「いいわね。その頃行って見ようかしらん」
練習の後の夕方でも、湖のほとりを散歩する図を想像して武馬は少しぼうっとなった。しかしまずそんな可能性はない。第一、合宿に女人が禁制なのは明白の理だ。
ホームに京浜電車が入った。トランクを持ち上げる武馬の横で、
「私、横浜までいこう」
素早く思い切ったように言ったかと思うと小さなかばんを手にしたまま、明子は先に電車のドアをくぐってしまった。
鞄を網棚に せて振り返る明子を見て、武馬の体の血がかっと上って来た。二人の後でドアが音を立てて閉まった。
今までちょっとしんみり落着いていた気持が急に逆に落着かなくなった。電車が動きだすと、明子の方も自分の取った行動に自分でまごついているように見える。
急に黙りこくった二人を乗せたまま電車はまたかく間に品川を過ぎた。
「いいんですか」
「いいわよ」
両方ともやっとそれだけを言ったが互いに妙に咎めたみたいな口調だ。
それでいながら武馬は自分がこれでやっと落着いた気持ちでいるのを感じていた。
“案外、彼女もさっき俺と同じことを考えていたのかも知らん”
彼は電車の吊り下がった広告を見るような顔で想った。
“それで、その実質的行為として彼女はこうしたのかも知らんぞ。とすると、横浜で手ぐらいいや、矢張り俺には出来るのはそのせいぜいが握手だな ──”
「何かあったら手紙下さい。出来ることならすぐに飛んで来る!」
言いながらも少し唐突とうとつかな、よ思った。明子が驚いたように見返して微笑わらった。
「い、いや親父に言われたから」
言ったが、ただの言い訳だった。
着いた横浜で、向いのホームから乗って帰る明子を今度は武馬が見送った。電車は武馬の眼の前で新橋でと同じ音を立てて扉を閉め、走り出した。
手を振る武馬に、ドアに顔を押しつけ中でも明子が手を振るのが遠くまで見えた。
武馬は大変満足であった。それに妙にほっとしてやっと自由に体が動くような気がして来た。
「どうも女はいかん」
トランクを持ち直し胸を張ってちょっと言ってみはしたが、矢張り実感は無かった。
2022/05/30
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