~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-96)
杉は前と同じように繃帯に埋まって寝かされていた。都合よく付き添いには看護婦の姿しか見えない。
武馬を覚えていた看護婦は、
「この前にお見えになった ──」
患者に告げた。
杉は入って来た客を天井に向いたまま眼だけで迎える。武馬はベッドの側に立ってのぞき込んだ。
武馬を認めた杉は問い返すような眼を上げる。
「看護婦さん、一寸ちょっと
頭を下げる武馬に、
「長くは困りますよ」
言って看護婦は出ていく。
「はじめて、僕、9Dの坂木と言います」
「やあ」
小さく言い、杉は口元だけで微笑わらった。
「君は覚えてないかも知らないが、僕は君といろんなところで会ってる」
「こないだ」
「そう試合の帰りのあの山の手でも」
「どうして ──?」
「君は余り話さない方がいい。僕が話すよ。雪葉さんは僕の下宿先のお師匠さんのお弟子でよく知ってるんだ」
杉は安心したように眼で頷いた。
「その前に、君が野球部の練習を隠れて眺めているのを見たよ」
杉は微笑しようとしたがそれはゆがんで見えた。
「図書館でガリ勉してる君を見て、雪葉のことがなくっても、こいつあ遠からず死ぬんじゃないかと思ったぜ。もっと前、入学式の時に君が野球部のところへ引っぱられて断りを言ってるのを僕は側で聞いていた」
杉は何か言おうとして唇を動かしかけたが、黙った。武馬は同じようにその眼を見返してやった。
「もう危ないことないだろうから言うけど、君は大馬鹿だよ」
「本当だ」
杉はゆっくり答えた。
「一体何のために、誰のために生きようとしてるんだ。何に縛られてか知らないけど、一番の成績もいいさ。しかしそれが野球を放り出し、恋愛とすり代えてまでやり甲斐がいのある目的かね」
「あの人のことは違う ──」
杉は言った。
「なにが違う。無理な事情があるのは聞いて知ってるさ。しかし君はそのことで何のトライもしてないじゃないか」
「したって駄目だめだ」
「駄目でも何故やってみない」
杉は眼をつむり唇を歪めるようにして微笑った。
「彼女のために何故やってみないんだ。駄目と言われて、そのまま泣きながら別れるだけの相手だったのか。この前だって、彼女が来なければ君は眼を開いたかどうかわからんよ」
半分願い、半分咎めるような眼で杉は武馬を見つめた。
「トライしてみて、どうにも駄目なら、代わりに野球をやりゃいいんだ。昔からみんなそうやってる。それが若い俺たちの方法だよ。代わりに一番になろうなんて、変にいじけて悲壮でまるで金色夜叉こんじきやしゃだ」
気弱そうに杉は微笑した。
「あの帰り、雪葉に頼んだ。なんにしろ君があるところまでなおるまで、二人の間を今のままにしておいてくれってね。その先どうなるかは知らんよ。僕はそんんじゃ経験はないが、しかし、恋愛は恋愛で何ともすり替えずもう少しガチガチやるところまで押してみろよ。それで一人自動車にはねられて死ぬ気があるなら、二人で何処かへ逃げちまえばいいんだ」
言いながら武馬はお師匠さんの小言を思い出した。しかしかまうことはない。
「なんにしても、無意味な勉強てのは一番馬鹿気てるぜ。君一人が思い立ったにしろ、君の親父がそうしろと言ったにしろ、それに身をすりへらして死にかかる当人が一番馬鹿だ」
「一番か ──」
杉は自分で嘲笑うように言った。
「君は親父と約束したって言ってたな。一体何でそんな約束をしたり、させたんだ」
「親父がさせ、僕がしたのさ。僕の親父は優秀な医者だ。ずっとずぬけた秀才でね。僕は何をやっても親父にかなわなかった」
「当り前だ、親じゃないか」
「そうじゃない、親父は何かにつけ自分を引き合いに出して僕に競争させた。おふくろに言いつけてまでね」
「よく野球をやらせたね」
「田舎の高校じゃ、僕はいつもトップだったからな。けど、大学に入ってからが本当の競争だと言われた。僕はね、親父が冗に一番と言った時、それを真面目まじめにとって挑戦した。今考えれば親父もその気で言い出したんだろう、親父はね、大学では遂に一番になれずに二番で終わったんだそうだ。そのことが親父をつまずかせて、親父は学校に残らず、独立した病院をつくって院長になった。僕にその夢、と言うより復習しかえしをけてたんだ。僕は、それをやろうとした。やって早く親父のかせから逃げようと思った。そして負けたんだ」
杉の表情は苦しそうに見えた。
「そんな勝ち負けは無意味だ。第一勝負にもなってないよ。君と親父さんとはそれぞれ違う生き方がある筈じゃないか」
「本当言や僕は文二で美学をやりたかったんだ。しかし、理二の医学を選んじまった」
「全く意味ないね。僕あ今日これで帰るが、夏休みの終りにもう一度来て必ず君の親父に言ってやるよ。君が怖けりゃ君の言いたいことを僕が代わりにぶちまけてやるぜ」
「いや、その必要はありません」
後で声がし、振り返った武馬の前に杉の父親が立っていた。
2022/05/31
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