~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-98)
「それはそうでしょうしかし、本当に一人前の医者になるためには、ある程度以上の努力がいることだけは変わりはない」
「それは、杉にもわかっている筈です」
「わかりました。とにかく私にもたった一人の息子です。あなたのおかげで私にはいい反省になった。確かに、私はあまりに性急せっかちに息子に期待をかけすぎたのかも知れない」
「黙って見てやって下さい。これを機会に、何もかも、つまり、白紙に戻したところから彼も自分で自分の意志を決めて出直せばいいんです」
杉の父は眼をつむるようにして頷いた。
「しかし念のために申し上げますが、そのことで、もしお父さんが彼に対して失望されてしまったとしたら、それは間違いです」
「いや、失望はしません」
父は微笑わらって首をふった。
「杉、後は君の勇気だ。君自身の決めることだ。それに、君はもっとお父さんに対して率直になる必要があるぜ」
「本当にそうだ。もしそう出来なかったのが私のせいと言うのなら、改めよう。しかしともかく私はお前に、こちらのお友だちが言ったように、お前自身の道をお前自身の方法で真っ直ぐに歩いてもらいたい。私が願うのはそれだけだ。わかってくれるな達也」
「わかります」
天井を向いまま杉は言った。言いながらゆっくり眼をつむるその目蓋まぶたの下から一滴光るものが頬を伝って流れた。
「よかった、僕が来た甲斐がありました。本当に有りがとうございました」
杉の涙を見て武馬は感動して、杉の父に向かて頭を下げた。
「いや、お礼を言うのは私の方です。あなたのようなお友だちがいなければ、私は知らずにいつまでも不幸な父でいたことでしょう。達也にしても同じことです。仕事にかまけて私は私なりの信条を自分にも他人にも押し通させようとして来たが、或いは、考え直してみれば、私のような人間を片輪と言うのかも知れない。片方では他人の病気を癒してやりながらね」
自らを笑うように杉の父は言った。
反省の色そうな杉の父を見て、武馬はいささか恐縮きょうしゅくしかかったが、しかし、なんといってもこの機会に押せるだけ押しておく必要がある。なにしろ全然気の弱い杉のことだ。
ベッドに向かって、
{野球を、やりたいんだろう」
杉は黙って武馬を見返す。
「隠れてグラウンドを覗いている君の姿を見て、僕あ走っていってどやしてやろうかと思った」
後で杉の父が苦しそうにせきをしていた。
「体が癒ったら、また投げろよ、え」
「ああ、やる」
杉は思い切ったように、短く言った。が、次の瞬間おびえたような影がおもてを走った。
「駄目だ」
「どうして」
「体が、この怪我で」
杉は願うような視線を医者である父親の方に向けた・
「いや右腕も、肩も、大したことはない」
杉の父が言った。
「お父さん ──」
ゆっくりと言うと、何かをみ込むような表情で杉はもう一度父親を見つめた。
「やってくれよ、みんな期待するぜ、野球をやりながら一番になれよ。なれなきゃ二番でも三番でもいい、君ならやれるだろう。野球も、勉強も、恋愛も、なにもかももう少し本当に自分を賭けてやってくれよ!」
武馬が恋愛と言った瞬間、杉が父親を前にしてベッドの中で身じろぎするのがわった。
「ついでに言っちまいます」
武馬は杉の父をふり返って言った。
「杉は、今、恋愛をしています」
「そうらしいね」
戸惑 とまど ったような微笑で父は言った。
「いけませんか」
「どうして、いけないことは、ない」
「彼はそのことで苦しんでいます。しかし今は何も言わずにいてやって下さい」
「しかし、あなたのおっしゃるようにせっぱつまって何処かへ二人で逃げてしまったりするのは困りますな」
そこまで外で聞いていたらしい。
「い、いや、ああれは僕がはずみでそう言っただけで、とにかくその問題の整理は、彼がもう一度自分で納得のいく形で果すでしょう」
「そう信じます」
杉の父は言った。
「しかし、私が若い人の恋愛に感知する能力がないように息子やあなたに思われているのは心外だな。私はいわばそっちの方の専門医とも言えるのだから、もっとも余り経験はない。しかし、達也、私がお母さんと結婚したのは、今で言えば、その、 灼熱 しゃくねつ の恋という奴の末だったのだがね」
言って杉の父は笑った。
一緒に居て、杉と父親との間に、あるものが通い出したのが武馬にもわかった。
「それじゃ、僕、そろそろ失礼します。夏休みの帰省の前に寄ったもんですから、そろそろいかないと急行に間に合わない ──」
辞しかける武馬に、
「有りがとう。お礼の申しようがない」
表情を改め、杉の父は近づいて握手するように手をさしのべた。
「達也の代わりに私の手を握って下さい。どうか達也のためにこれからも変わらぬお友だちでいて下さるように」
武馬はその手を力一杯握りしめ、それを包むように杉の父は両掌を重ねて握りしめた。
2022/06/02
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