~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-99)
急行は帰省の学生たちを乗せて んでいた。席が見当らず、武馬は通路の端に手にしたトランクを置いてその上に腰を下した。
しかし彼は今非常に満たされた気持でいた。どのような異なった人間に対してでも、結局誠意というものはいかなる言葉以上に通じるものであるということを、理屈としてではなしに、武馬は感慨として味わっていた。
熱海を過ぎ、前のシートにいる東京から乗って来たどこかの大学生たちがスポーツについて話し合っていた。
話題はいつか六代薄野球秋季のリーグの予想になった。話の様子では可成りくわしい。どうやらルーグを違えた東都大学リーの選手たちらしかった。
秋の優勝うらないから彼らは勝手に六大学の順位の予想を立て始めた。四位までの予想が決まり、五位の時、いかに今シーズン不調とはいえ法政は五位を守るだろう、ということで結局東大が最下位ということになった。
「実際あんな下手へたくそな大学を置いといて、学生の最高リーグてのは変な話さ。東都と入れ替え戦をやって弱い奴はどんどん落とせばいいんだ」
「学生野球もプロじゃないけど、学生だからいくら弱くてもいいんだったえ東大の言い分も変なもんだな」
「昔はいい選手もいたらしいが、全く今の東大の試合てえのは見ちゃいられないよ。ましな高校以下だ」
昔あいい選手もいたらしいがなあ」
「そう言や、去年の夏甲子園で優勝した湘南校しょうなんこうのピッチャーは東大へ入ったんだろう」
「ああ杉な。あいつがいりゃ法政より ──」
「いや、やってないらしいよ」
「どうして」
「どうしてかな。学生野球連盟の会で誰かがそう聞いたって言ってた」
「もったいないじゃないか。高田、お前あ甲子園でその杉ってのに会ったんだろう。どんな球だい」
「速かったなあ。なにしろ、せてたけど、たっぱが六尺はあるんですからね。速球だけじゃなしにね、変化球のシフトが良くて、僕あ、三番打ってたけど四打席で〇、三振を二つとられた。投手戦で九回まで零々ゼロゼロでね、最後にあいつがさよなら三塁打を打ちやがって負けたんだ。とにかくあいつの球あ、大学入ったらもっと速くなるだろうってうわさでしたがね」
「プロも引っぱてたよな」
「もったいねえなあ」
聞きながら武馬は一人で微笑した。誰も知らぬことが、先刻あるところで決められているのだ。体が癒り切った時、杉は再びマウンドに登るだろう。そして東大はいつも誰しもがする予想を裏切ってリーグの順位をくつがえすに違いなかった。
が、武馬はふとまた杉が父親に走らせたふあんな眼差しを思い出した。
野球の選手が、たとい手のの指一本を折るだけのことに依って調子を狂わせ、その野球的生命を失ってしまうという事実を門外漢もんがいかんの武馬でさえ知っていた。
しかも、杉の身に起きたのは一朝一夕の怪我ではない。速球に加えて微妙なコントロールを生命にした杉の投球が、果たして昔日せきじつの効力を持つかどうかは疑問と言うより、殆ど不可能なことかも知れない。
杉にとって必要なことは、野球の成績ではない。それをやるということだ。今年学生たちの誰かが言っていたように、ポロになる訳では決してない。勿論もちろん、彼は野球に打ち込みながら同時に自分自身への宣言として、能力の限り優秀な学業をおさめようとするだろう。
しかし、彼がマウンドに立って、一旦、その腕と指が、かつての能力を全く欠いているということを知ったとしたなら、彼はまたそこで挫折ざせつし、自信をうしなってしまうかも知れない。
武馬はにわかに心配になった。しかし、これだけは今から気をつかってどうなることではない。
第一、杉の父はああ言ったが、彼の体が元通り、ボールを投げられるまでに回復するかどうかもまだ先のことに違いなかった。
とにかく今は彼の体の完癒を何ものかに祈る以外に手だてはなかった
2022/06/05
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