節子が奈良に入ったのは夕方だった。街に明るい灯がついていた。駅前からタクシーを走らせた。黄昏たそがれどきの公園通りの人通りは少なくなっていた。興福寺の塔に、下から照明がきれいに当たっているのが見えた。
宿は、夫と打合せて、飛火野とぶひのあたりに取っておいた。その宿に着くと、夫の亮一は、先に到着していて、もう風呂から上がっていた。
「済みません。遅くなりました」
節子が詫びると、夫は、近ごろ肥えてきた身体を丹前に包んで、丸くなって新聞を読んでいた。
「君、風呂はどうする?」
夫は、節子を見ると言った。
「あとで頂きますわ」
「それじゃ、早速、飯にしよう。腹が減った」
夫は、子供のように腹を叩いた。
節子は、すぐに女中に夕食を頼んだ。
あなたは京都はわりにお早かったのね?」
節子は夫に言った。
「ああ、早く済んだ。あとで親しい連中で、懇親会をするのだが、ぼくは酒が飲めないし、それに君がこっちに待っているので、その方は切り上げて来た」
節子は、自分が遅れたのが、よけいに済まなくなった。
「「ほんとに悪かったわ。ごめんなさい」
「いいよ。それよりも」
亮一は節子の顔を、にやりと見て、
「君の古寺巡礼の話でも聞こうか」
と言った。夫は節子の趣味をひやかしていた。
食事が来た。
酒の呑めない亮一は、食事には手が要いらなかった。早速に飯にしながら、皿の料理を片はしから片づけはじめた。
「あら、随分、お腹が、空すいてらしたのね!」
節子は、夫の様子を見て微笑した。
「ああ、今日は学会で根こんを詰めたし、京都からここまでの一時間の電車の中で、すっかり腹を空かした」
夫の亮一はT大の病理学の助教授だった。
「ところで、君の古寺巡礼は、予定通り済んだかね?」
「ええ」
節子は思わず曖昧あいまいな返辞になった。夫に話して置いた予定とは違ったのである。
「佐保路のあたりはどうだった?」
夫は訊いた。尤もつとも、それには少し理由わけがあった。亮一は「佐保路」という名前が気に入っていたのだ。語感もいいのだが、「吾わが背子せこが見むらむ佐保道じの青柳あおやぎを手折たおりてだにも見むよしもがな」という万葉集の中にある大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの歌を自慢で憶えている。
亮一は、若い時、そんな本をよく読んでいた。
「あちらには、廻りませんでしたわ」
節子が言うと、夫は、
「どうして?」
と節子を見て、
「あの辺は、君が愉しみにしていたんじゃないか?」
「そうなんです。でも、向うには行かずに、橘寺や安居院などを廻って来ましたわ」
「妙な方角へ行ったもんだね」
夫は言った。
「何を思い立ったのだ?」
節子は、思い切って理由を話すことに決めた。
「唐招提寺に行った時、叔父さんによく似た筆蹟を芳名帳の中に見たものですから、もしかすると、ほかのお寺の芳名帳にもそれが無いかと思ったんです」
「叔父さん?」
夫は眼をあげた。
亮一は、節子と婚約中時代から野上顕一郎には会って知っている。結婚後も何度か訪問して、この義理の叔父の話をよく聞いたものだ。
「叔父の筆ぐせによく似た文字があったので、つい、なつかしくなりましたわ」
「なるほど、叔父さんは、君の古寺巡礼の師匠だったね」
夫は明るく笑った。
「それで、ほかの寺の芳名帳も捜索したわけかね。しかし法華寺や秋篠寺だって、同じ人は行って居そうなものだ。飛鳥あたりの寺に、まっすぐに行ったのは、どいういわけかね?」
「叔父が、あの辺を好きだったんです。わたしが小さかったころ、外国から、よくそんな感想みたいなことを書いて寄越しましたわ」
「おいおい」
と夫は言った。
「話が変だよ。君は叔父さんを探して歩いたわけではあるまい。よく似た筆蹟ということだけだろう?」
「それは、そうですわ、叔父は十七年前に死んだんですもの。でもちゃんと安居院で、同じ筆蹟を発見しましたわ」
「やれやれ」
と夫は言った。
「女の直感というのは恐ろしいものだね。その叔父さんの筆の亡霊を騙かたったのは、何という名前の一かい?」
「田中孝一という名前です。それがほんとによく似てるんですの。叔父は北宋の米芾の書を手本にしていましたから字体に特徴があるんです」
「田中孝一氏も、同じシの書家を師匠にしていたのだったら、罪なことを君にしたものだね。君に予定を変えさせて、安居院に走らせたのだからね」
茶をのんでから、夫は笑った。
「地下の叔父さんは喜ぶだろう。そりゃ、ご苦労さまだった」
すぐ横が飛火野だから、夜は静かなものである。雨が落ちて来たらしく、廂ひさし
に音がしていた。
夫に嗤わらわれたが、節子は、「田中孝一」の字体が、いつまでも眼に残って離れなかった。
今日ほどヨーロッパで病死した叔父の想い出に纏まつわられたことはなかった。
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