~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (02-01)
節子は東京に帰って二日目に、叔母の家を訪ねて行った。
叔母の家は、杉並の奥の方にあった。そこは、まだ、ところどころ、武蔵野むさしのの名残の櫟林くぬぎばやしがあった。近くには、或る旧貴族の別荘がある。その邸は、ほとんどど、林の中に包まれていた。節子は、この辺の道を歩くのが好きである。
新しい家も、ふえていた。そのために、次第に彼女の好きな林が失われて行くのである。それでも、旧貴族の別邸の辺りは、櫟、かしけやきもみなどが高々と空に梢を張っていた。
秋はことに美しかった。まがきの奥に、武蔵野の名残が、林のままで残っている家もある。
叔母の家は、そのような一角にあった。どの家も古い。狭い道が花柏さわらの垣根の間を曲がりくねっていた。初冬になると、この狭い道路の両端に落ち葉が溜まって、節子が歩くのを愉しませた。
節子が小さな家の玄関の前に立ってベルを鳴らすと、叔母の孝子たかこがすぐ出て来た。
「あら、いらっしゃい」
叔母の方から、節子に声をかけた。
「奈良からのお葉書、頂いたわ、いつ帰ったの」
一昨日おとといですわ」
「そう、まあ、お上がんなさい」
叔母は先にたって座敷に入った。
この叔母が、叔父の所に嫁いで来た日を、節子は子供心に憶えている。
その披露宴ひろうえんは、叔父が天津の領事館補になって赴任する直前だったようにおもう。結婚後一年余りして、節子の母に叔父と叔母の連名で手紙が来たのを憶えている。節子自身も、叔母から、中国のきれいな風景の絵葉書を貰ったのを忘れてはいない。叔母は、きれいな字を書く女であった。
叔父は、自分が趣味に書道をやっていただけに、かねてから、
「ぼくは字の下手くそな女は軽蔑するね、お嫁さんを貰うのなら、字のうまいのを一つの資格にするな」
と姉である節子の母に言っていたくらいである。だから、この妻を得たのは、その資格を認めたからであろう。
叔父の筆蹟は、妙に癖のあるもので、中国の古い法帖を手本にしたと言っていたが、少女の頃の節子は、一向に、その文字に感心しなかった。右肩の上った変に個性の強い字体なのである。
「奈良は、何日いたの?」
叔母は、茶を出しながら訊いた。
「一晩きりなんです」
節子は、奈良からの土産物を出して言った。
「そりゃ残念ね。もう少し、ゆっくりしたらどうだったの?」
「でも、芦村の学校の都合もあるので、そうもゆかなかったんです」
「そう」
「わたくしひとりで奈良に朝早く着いて、すぐ唐招提寺に行ったんです。それから、秋篠や法華寺の佐保路の方を歩きたかったんですけれども、妙なことから、逆に、飛鳥の方に廻りました」
2022/08/13
Next