~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (02-02)
妙なこと、というのを、叔母は、何気ない意味に受け取ったらしい。
「どんなことがあったの?」
と節子の顔を見て問い返した。
節子は、ここで、叔父の筆蹟のことを話していいかどうか、逡巡ためらった。普通の話しだったら、彼女も笑って言えることだったが、あの「田中孝一」という筆蹟には、妙に迫真性があって胸につかえる。
終戦直前に外国で死んだ夫のあとを守って、ひっそりと暮らしている叔母に、気軽には言えない。
しかい、これは、結局、言わねばならなかった。
「唐招提寺に行った時」
と彼女は話した。
「そのお寺の受付の芳名帳の中に、叔父さまとそっくりな筆づかいで書いたお名前を見たんです」
「へえ」
叔母の表情には、別に、激した反応はなかった。ただ、眼が好奇的に変わったくらいである。
「珍しいわね。ああいう字を書く人は、ほかに、あまりないと思ったけれど」
「それが、そっくりなんですよ、叔母さま」
節子は、出来たら、その芳名帳の一部をかりて帰っても叔母さまに見せたいくらいであった。
「わたくし、叔父さまの字は、さんざん見せられて、よく憶えているんです。ですから、他人ひとの名前が書かれてあっても、その筆蹟を見て、声が出そうになったくらいおどろいたんです」
叔母は、まだ、平気で笑っていた。
「わたくし、その田中孝一という、叔父さまそっくりの筆蹟を探して、飛鳥の方に行きましたわ。叔父さまは、よく、飛鳥路の古いお寺のことを話していらしたから」
「それで、どうだったの?」
やっと興味を持った表情だった。
「それが、有ったんです。安居院に廻って、そこで、やはり、田中孝一の筆蹟を見ましたわ」
「まあ」
叔母は、すぐ笑い出した。
「あなたが、あんまり思いつめているんで、そういう字体に見えたんじゃない?」
「そうかも知れません」
節子は、一応、逆らわなかったが、
「でも、できたら、わたくし、叔父さまの筆蹟と比べてみたかったくらいです」
「有難いわ、やっぱり、節っちゃんね」
「叔母さま、近かったら、そこにお伴したいくらいですわ」
「駄目よ、そんなもの拝見したって」
叔母はくびを振って答えた。
「本人は、とっくに死んでるんですもの。かえって、心残りだわ。どこかで本人が生きているというのなら別ですけれど、筆蹟の幽霊に惑わされたらかなわないわ」
「ああ、芦村もそう言ってましたわ」
節子は、叔母の言葉を引取って言った。
「私が、奈良の宿で、橋村と落ち合って話した時、橋村もそういうんです。今日一日、君は、叔父さんの亡霊の筆に引きずりまわされた、って」
「それは、そうよ」
叔母は言った。
「芦村さんの言うのは、本当だわ。もう、そんなこと、二度と考えないで下さいね」
2022/08/13
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