~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (02-03)
叔母は、夫を失った後、質素な生活を続けている。実家がやはり古い官吏で、資産がそれほどあるわけではなかった。亡夫の関係で、娘の久美子も役所に勤めている。これまで再縁の話もあったが、叔母はことごとくく断ってきた。叔母は、それだけの美しさをもっていた。
「久美ちゃんは」
節子は話をかえた。
「お元気で、お勤めですの?」
「ええ、お蔭でね」
叔母は微笑した。
「結構だわ」
節子は、ここ暫く会わない従妹のことを考えて言った。
「叔母さまも大変でしたわね。でも、のうすぐね、久美ちゃんにお婿さんを迎えるまでね」
「私も、そう思ってるんだけど」
叔母は、新しい茶をいだ。
「まだ、なかなか、苦労が済みそうにもないわ」
「久美ちゃん幾つだったかしら」
「もう、二十三よ」
「適当な人、あるのかしら?」
それは、久美子の結婚の相手が、見合いでなく、久美子自身が選んでいるのかという意味だった。
「それね」
孝子は、茶碗をなんとなく眺めていたが、
「そのうち、節っちゃんに、話したいと思っていたのよ」
と言い出した。
節子は、新しいものに触れたように、叔母を見た。
「あら久美ちゃんに、そんなお話、ありますの?」
「何だか、久美子がね」
叔母は、少しうつむいて話した。
「そんな男のお友達が出来たらしいの。この間から、二、三度、遊びに連れて来たけれど」
「そう、どんな人」
「新聞社に勤める人なの。お友だちのお兄さんとかで、私の感じでは、明るい、いい青年だと思うんだけど」
「へえ」
節子は、久美子の選んだその相手が、どのような青年かと興味を持った。
「節ちゃん、あなたも、一度、会って下さらない?」
叔母は言った。
「そうね、会ってみたいわ。今度、久美ちゃんにその話をして、ここにその方が見えたら、私も一緒に居たいわね。それで、叔母さまのお考えはどうなの?」
「よく、判らないの」
叔母は、口では言ったが、心では、久美子がその青年と結ばれることに、反対ではなさそうだった。
「早いものね」
節子は、遠いときを想い出すように言った。
「叔父さまが亡くなられた時、久美ちゃん、幾つだったかしら?」
「六つだったわ」
「叔父さまが、今まで元気でいらしたら、どんなにおお喜びになるか分からないわ」
その青年と久美子が結婚まで行くかどうかは別として、そてよりも、その年齢に久美子が来たことは、節子には一種の感慨であった。
節子は、以前から、この従妹を可愛がったものだった。いろいろ記憶があるが、こういう時に思い出すのは、久美子が幼かったころに多い。
いつか、江ノ島に連れて行った時は、久美子はまだ四つくらいであったろうか、海岸の砂遊びに夢中になって、帰る時刻になっても節子の言うことをきかず、節子自身が泣きたくなったことがあった。砂浜にしゃがんでいる久美子の、赤い小さな洋服と白いエプロンとが、今でも眼に泛ぶのである。
「そりゃ、子煩悩こぼんのうだもの。外国あちらに行ってからも、久美子のことばかり書いて来たわ。最後の手紙もそうだったの。あなたに、いつか、お見せしたわね」
孝子が言った。
「ええ、でも、もう忘れちゃったわ。もう一度、拝見したいわ」
節子がそう言ったのは、叔父の手紙を読みたい気持ちとは別に、叔父の筆蹟を、改めてたしかめてみたいからだった。
叔母は、すぐに今に行った。こういう時の叔母は、なにかいそいそとしている。亡夫の想い出は、彼女をいつもはずませていた。叔母は、ふところに封筒を挟んで戻って来た。
「これよ」
封筒には外国の切手が一杯貼ってある。スタンプは一九四四年六月三日の消印だった。
何度も取り出したものらしく、その厚い封筒の紙質が疲れていた。節子は、中の紙を出した。これも、前に確かに読んだ記憶がある。その便箋もかなりしわついていた。
勤務地の中立国で病気ななった叔父は、スイスの病院に入っていたが、手紙は、その病院からである。
2022/08/13
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