~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (02-04)
「遠い所にいると、よけいに日本の大変さが分かる。人間は、その事態の渦中にいる場合よりも外にいる方が、よけいに感覚的に真実を受け取るものだ。ちょうど、自殺をする当人よりも。目撃者の方が遥かに恐怖に駆られるのと同じことだ。ぼくは、今、スイスの病院にいる。そして、この中立国の場所から日本のお前たちのことを案じている。。
今ほど君たちのことを考えたことはない。こちらの新聞にも、日本が爆撃にさらされていることが、毎日のように報道されている。それを読む度に、ぼくは、久美子のことが気にかかって仕方がない。こういう時節に、自分の家族のことだけ思うのは間違いかも知れないが。
しかし、何とか、日本全体を、早く平和に戻さなければならない。ぼくが、こうしてベッドに眼をつむっている間にも、その一瞬一瞬に、何百人、何千人の生命が失われているのだと思うと、空恐ろしい気がする。
僕の横たわっているベッドには、窓からおだやかな陽が差し込んで来る。おそらく、このような平和の陽射しは、君たちの身辺にはないだろう。防空壕に隠れ、米機の襲来におののいて逃げまわっていることだろう。
君も、久美子という足手纏あしてまといがあって、行動にも何かと不自由なことだと思う。しかし、頑張ってほしい。ぼくの気持だけでも、君たち二人を守ってあげる。
早く、日本に平和が来るように、そして、久美子が無事に成長するように祈っている」
戦時中の厳しい通信の検問を考えても、このような文章を書いた叔父は大胆だったのだ。その勇気も、娘の久美子や妻の孝子を想う余りに違いない。
節子は文字の分析に移った。やはり、ペン字ではあるが、右肩上がりの、特徴のある筆蹟だった。あの、大和の古い寺で見た筆の字が、そのままペンの癖となっている。
「こういうお手紙を拝見したので、小父様に、お線香を上げたくなりましたわ」
節子は、その手紙を封筒に入れて叔母に返した。封筒の裏はスイスの、療養所の地名が書かれている。
「そう、有りがとう」
孝子は、節子を次の間の仏壇に案内した。そこに飾られてある写真は、野上顕一郎が、最後の一等書記官時代の姿であった。口許くちもとに微笑があった。細い、まぶしいような眼をしているのがこの叔父の特徴である。
「叔父さまの御遺骨を日本に持って帰って下さったのは、どなたでしたかしら?」
と叔母に訊いた。
村尾まぶ芳生よしおさんよ。当時、同じ公使館の外交官補をしていらっした方だったわ」
「その方、今、どうなすってらっしゃいます?」
当時、公使が病気で日本に帰っていて、一等書記官の叔父が代理公使みたいになっていたのである。だから、叔父の遺骨は終戦になって、その村尾外交官補が持ち帰ったのだった。
「村尾さんは、欧亜局の××課長をしてらっしゃるわ」
叔母は答えた。
「そう、それで、叔母さま、その後、村尾さんにお会いになったことがありまして?」
「いいえ、最近は、ずっとお目にかかってないわ。以前は二、三度、うちへお見えになって、パパにお線香をあげて頂いたことがあるけれど」
村尾氏は、先輩の遺骨を持って帰った関係から、遺族を二、三回訪問したのだが、その後、歳月が経つとともに、いつか足が遠のいたに違いない。累進した氏の位置が、仕事を忙しくさせているからであろう。
その村尾外交官補が、叔父のお骨を叔母に渡す時、叔父の最後の模様を伝えたわけだった。それは、節子が叔母から次のように聞いている。
叔父の野上顕一郎は、その中立国で敗戦の色が濃くなってゆく日本の外交のために奔走した。すでに枢軸国のイタリーは連合軍に降伏していた。ドイツはソ連から敗退を続けていた。どう欲目に見ても、日本に勝ち目のない情勢だった。
その頃の外交のことはとく分からないが、叔父の仕事は、中立国に働きかけて、日本を有利な立場で終戦を迎えさせる工作だったらしい。中立国筋から、連合国側に運動してしの目的を達しようとするつもりだったと想像されるのだ。
しかし、当時の中立国筋は日本に同情が無かったから、というよりも、ほとんど連合国側だったから、叔父の工作がどのように困難だったかが分かるのである。叔父は、そのために肺を侵されたのだ。頑丈な体格だったが、スイスに移って入院するころは、見るかげもなくせ衰えていたという。
死亡の通知は病院から、その国の外務省を経て、公使館に連絡された。外交官補の村尾氏が、遺体の引き取りにスイスのその病院に行ったのだが、戦時下のことで時日がかかり、到着した時は、すでに遺骨になっていた。
村尾氏が、病院側の話を聞くと、叔父の最期は平静だったそうである。日本の運命ばかりを気遣きづかっていたということだった。病院側は、妻に宛てた叔父の遺書を村尾氏に託した。それは遺骨と一緒に叔母に届いている。
その遺書は、やはり久美子の養育のことが主に書かれてあった。妻にも、しきりに再婚をすすめる文句があった。節子は、まだ見せてもらったことはないが、彼女の母が読んで、節子に内容を教えたことがあった。
2022/08/16
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