~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (02-05)
節子が、奈良の土産を持って叔母を訪ねてから四、五日経った。夫の居ない昼間は静かだが、そのとき久美子から電話がかかってきた。
「お姉さま、今日は」
従妹だが、久美子は節子をそう呼んでいた。
「あら、どこから掛けているの?」
「役所の前の赤電話だわ」
久美子は答えた。
「変な人、どうしてお役所から掛けないの? ああ、散歩のついでなのね?」
「ううん、そうじゃないわ。役所では掛けられない用事なの」
久美子はすこし甘えるような声で言った。
「何なの?」
「この間、奈良にいらしたんですってね? 家に帰ってから、ママからお姉さまのお土産頂いたわ」
「ええ、あなたのお留守にお邪魔したわ」
「ねえ、お姉さま、ママから聞いたんだけど、奈良のお寺で、パパの筆蹟によく似た字をごらんになったんですって?」
「ええ、そうよ」
節子は微笑した。やはり、それが聴きたくて電話を掛けてきたのだと思った。
「そのことで、もっと伺ってもいいかしら?」
久子は訊いた。
「え、そりゃいいけれど。だって、ママに話したこと以外には何も無いわよ」
節子は、久美子が亡父をなつかしがるあまり、期待を持たれては困ると思った。
「分かってます」
久美子の声は、一寸ちょっと、そこで跡切れたが、
「明日、日曜ですが、お伺いしていいかしら。ああ、お義兄にいさまがいらっしゃるのね?」
うち・・は、なんだか学校の用事があるとか言って、明日は居ないわ」
節子がつづけて話そうとすると、
「よかった!」
と久美子の声がそれをさえぎった。
「お義兄さま、いらっしゃらない方が都合がいいわ。ちょっと、恥ずかしいことがあるの」
「え、何なのよ」
「久美子のお友達を連れて行きたいんです。その人、新聞社につとめているんですけど、お姉さまの奈良での話をしたら、とても、興味を持ったんです」
「新聞社の人?」
「いやだわ、お姉さま、ママからお聴きになったでしょ?」
久美子の声は、そこで少し小さくなった。節子は、電話を切ったあと、久美子の男友達の新聞記者が、なぜ、叔父に似た筆蹟に興味を持ったのか、気がかりになった。
その晩、帰って来た夫の亮一に早速話すと、
「それみろ、君がつまらんことをしゃべるからだ」
と彼はネクタイを解きながら顔をしかめた。
「ちかごろの新聞記者は、ネタ探しに何にでも興味を持ちたがるんだ」
だが、節子には、そんなことが新聞のネタになるとは思われなかった。
「そうか、久美子にも、そんな恋人が出来たか」
しかし、夫はすぐにそっちの方へ関心を移した。
2022/08/16
Next