~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (03-01)
晴れた日だった。風のあるせいか空がどこまでもあおい。日曜日だったが、夫の亮一は脱稿の仕事で朝から居なかった。
「今日は久美子が新聞記者を連れて来る日だったな」
夫は、昨夜、妻から訊いた話を、出かける時も、思い出して言った。
「そう、あなたもなるべくはやく帰って来て下さいな」
「うん」
夫はかがみ込んで靴を履いていた。
「折角だが帰りは遅くなるだろう。まあ、よろしく言ってくれ」
夫は、古いかばんを持って出かけた。
従妹の久美子が電話を掛て来たのは、十一時ごろだった。
「お姉さま?」
久美子は、いつもの明るい声で受話器から呼び掛けた。
「一時ごろからお伺いしますが、よろしいでしょうか?」
「あら、なぜ、もっと早く来ないの?」
節子は言った。
「なんにもないけど、お昼食ひるもちゃんとしてるのよ」
「だから一時にしたんです」
久美子は答えた。
「二人でご馳走になるのは、なんだか気がひけますわ」
久美子のその気持ちは、節子にも分からないわけではなかった。つまり、初めて連れて来る男の友達と、一緒に節子の家で昼食を食べるのが、何か意味有り気に取られそうなのを嫌っているのだ。近ごろの若い人はそういうことには平気だと聞いたが、久美子にはそのような古風な所がまだあった。
「構わないじゃないの?」
節子が言った。
「なんにも無いんだけど、用意してるのよ」
「ごめんなさい」
久美子は謝った。
「ほんとに悪いんですけれど、そんな御心配なさらないで。そのつもりでこちらで頂いて出かけますわ」
「いいじゃないの。あなたの所で頂くのも、うちで食事して頂くのも、同じことだわ」
「ううん、そうじゃないの。添田そえださん、家なんかでまだ食べたことないわ」
久美子のその言葉で分かった。彼女の意味は、途中で両人ふたりが落合い、どこかで一緒の食事を済ませて、連れだって来るというつもりなのである。これは節子の家で食事を取るよりも、若い二人にとっては気兼ねなしに済むことだった。節子は、久美子のその男友達が添田という名前であることも同時に知った。
「すみません」
久美子は、電話口で詫びた。
「ほんとに御心配かけて」
「そいじゃ、しょうがないわ。なるべくい早くいらっしゃいね」
その電話が済んで、約束の一時になるまで、節子は、やはり落着かなかった。久美子がどのような男性を連れて来るか興味があった。叔母の話では、その新聞記者という青年と久美子とが、どうやら恋人に近い仲だという。昨夜夫も言ったが、久美子の小さい時を知っている節子には、何か改まった感じで彼女を、迎えるみたいだった。
2022/08/17
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