~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (03-03)
節子は、なぜこの若い記者が叔父の野上顕一郎に興味を持つのかと思った。一つは、彼が久美子と恋仲になったので、彼女の父親のことを知りたいためかも知れなかった。が、それなら、なにも奈良で叔父の筆蹟を見た節子の所に話を聴きに来る理由はなかった。久美子なり、その母親から聴けば充分なのである。
「どうしてそんなことに興味をお持ちになりますの?」
節子が訊いた時、添田彰一は、
「ぼくは、目下、人生に何にでも興味を持つことにしています」
と言った。その答え方が言葉にもかかわらず、不思議とキザには聞えなかった。それは添田彰一の持っている地味な雰囲気によるせいかもしれない。が、何よりも彼のその表情が大そう真面目であることだった。
なるほど、新聞記者というものは人生に興味を持つことによったその職業が成立するのであろう。が、節子は自分が叔父の筆蹟に似た文字を発見した時に覚えたあの不思議な気持ちを、この青年がもっと冷徹に分析して感じているように思えた。別に根拠があってのことではない。なんとなくこの添田彰一という青年を見ていると、そんな気持になった。
大体のことは、久美子が添田に受売りしているに違いなかった。節子は奈良旅行の話を、ここで改めて添田に詳しく言った。添田は熱心な顔で、それを聴いていた。ときどきメモを出して書きつけるところなどは、矢張り新聞記者らしい。話の内容は単純だから、それほど長い時間を要さなかった。
「久美子さんのお父さんの筆蹟は、大変特徴のあるもんだそうですね?」
「そうですわ。若い時に、中国の米芾の書を手本にしていましたから、字体が大そう特徴がありますの」
節子はうなずいた。
「米芾の文字なら、ぼくも知っています」
と青年は言った。
「いまどき、ああいう字を書く人は滅多にいませんね。その寺の芳名帳の文字は、やはり奥さんがご覧になって、久美子さんのお父さんの文字をすぐに連想なさったくらいよく似ていたわけですね?」
添田は念を押した。
「そうなんです。でも、そういう字体を書く方は、世間にはほかにもあると思いますわ」
「そtれはそうですね」
添田彰一は静かな返事をした。
「けれど」
と彼はつづけて言った。
「その文字が、久美子さんのお父さんの一番好きだったという奈良の古い寺で見つかったのが、ぼくには非常に興味を起すんです。いや、こう言ったからと言って、久美子さんのお父さんが生きていらっしゃるとは、無論、思っていません。ただ、ぼくが興味を持ったのは、そのことを機縁として、久美子さんのお父さんの最期を詳しく知りたいという気持が出て来たのです」
「それはどういうことですの?」
節子は、相手の顔を見つめ、思わず自分の表情が硬くなるのを覚えた。この新聞記者の考えていることを察したからだった。
「いや、別になんでもありません」
添田彰一は、やはり律義な顔で平凡にそれを否定した。
2022/08/18
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