~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (03-04)
「ぼくは新聞記者です。お話から多少職業的な興味を起したのは、戦時中の日本外交のことについて、日ごろから少し調べて見たいと思っていたからです」
節子は、その言葉で添田彰一の興味が野上顕一郎個人についてではなく、戦時外交の話を考えているからだと知った。
「今まで、戦時中の日本の外交官が、中立国でどのような外交をして来たかは、あまり書かれていません。終戦後、すでに十六年にもなるのですから、今のうちに、生き残っている人の話を聞いてまとめておいてもいいと思いますね」
節子は、ほっとした。例えば、自分の体の周囲を締め付けていた空気が不意にいるんだ時の気持に似ていた。
「結構ですわ」
節子は讃めた。
「きっといいお仕事になるにちがいありません」
「いや」
添田彰一は、ここで初めて顔をうつむけた
ぼくはまだ若造ですから、そう深い仕事が出来るとは思いません」
「いいえ」
節子は首を振った。
「きっとユニークなお仕事になると思います」
この話の間、久美子は、始終、微笑を消さないでいた。もとからおとなしいだったが、今日は初めて添田彰一を連れてきたせいか、口数も少なかった。それでいて、たえず節子と添田彰一との間に気を兼ねているところが見えた。
「ぼくは、外務省の村尾さんをお訪ねしようと思います」
添田彰一は、茶を飲みながらそう言った。
「久美子さんのお母さんの話でも、村尾欧亜局××課長が一番詳しいということですから」
「そう。その方が一番適当でしょうね」
節子も同意した。
村尾欧亜局××課長は、野上顕一郎が一等書記官の時の外交官補である。叔父の遺骨を持って帰ったのも村尾なのである。やはりその人よりほかにあるまいと思えた。
「でも、残念ですね」
添田彰一は、相変わらず控え目な言葉で言った。
「もうすく終戦になるという時に、久子さんのお父さんが亡くなられたのですからね。せめて、日本に帰ってからだったらお心残りも少なかったと思います」
それはいつも節子が考えていたことなのである。久美子の方を見るとうつむいていた。
その若い二人が節子の家を出たのは、三時ごろだった。
秋の陽射しが植込みの木の影を伸ばしていた。赤い葉鶏頭はげいとうのある垣根の向うを、二人姿は歩いて過ぎた。
節子は庭から見ていたが、葉鶏頭の色だけがいつまでも眼に鮮やかに残った。人通りの少ない路なのである。
2022/08/18
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