~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (03-06)
足音がした。添田彰一は窓際を離れた。
入って来たのは、肥った男である。恰幅かっぷくがいいのでダブルの洋服がよく似合った。血色のいい顔と、髪の薄いのとが、新聞記者が見た最初の印象だった。
「村井です」
課長は片手に添田の名刺をつまんでいた。
「どぷぞ」
「お邪魔します」
添田彰一は、村瀬課長とむかい合って坐った。女の子が茶を運んで去った。}
「電話で聴きましたが、どういうことをぼくに訊きたいんですか」
髪も薄いが、口髭くちひげも薄かった。唇の辺りに紳士的な穏やかな微笑がある。肥っているので、身体が椅子一ぱいだった。
「課長さんは中立国に駐在しておられましたが、それはずっと終戦までですか?」
添田彰一は、そのことを知っている。しかし、一応、当人に確かめるのがこういう場合の定石であった。村尾課長は、その通りです、と返辞した。
「ずいぶん御苦労なさったことでしょうね?」
終戦直前の日本外交がどのように困難であったかは想像できる。
「そりゃ苦労しました。なにしろああいう事情でしたからね」
課長やはり穏やかな顔色だった。
「その時の公使は、確か帰国されていたと思いますが」
「そうです」
課長はくくれたあごを引いて承認した。
「代理公使といいますか、公使の事務代理をやっていたのは、一等書記官の野上顕一郎さんではなかったですか」
「その通りです。野上さんでした」
「確か向うで亡くなられた?」
「そうです。大へんお気の毒でしたがね」
課長は静かな声で言った。
「最上さんも相当に苦労されましたでしょうね?」
「それは大へんな苦労があったと思いますよ」
村尾課長は、そこで煙草を取り出した。
「なにしろ、野上さんの命を縮めたのは、その苦労がたたったと言われるぐらいですからね。当時、ぼくは外交官補で、野上さんの下についていたんですが、みんな戦時外交のためにずいぶん苦労しましたよ」
「野上さんの遺骨を持って帰られたのは、確か課長さんでしたね?」
「よく知っていますね」
課長の方から新聞記者に眼を向けた。
「いや、それは、当時の新聞記事を調べて見て分かったことです。新聞には、課長さんが遺骨を抱いて引揚げたと出ていました」
「そう」
課長は、また煙りを漂わせた。
「ところで、野上さんは学生時代からスポーツをおやりになっていましたね。殊に柔道は・・・」
「三段です」
「そうでした。三段でしたね。体格もご立派だったと聴いていますが」
「それがいけなかったんですよ。若い時からスポーツをあんまりやると、却って肺を冒されやすいんですな」
「ほう。では野上さんは肺で亡くなられたわけですね」
「そうです。あれはいつ頃だったかな? 昭和十九年の初めだったと思うが、胸の方がひどくなって、医者が転地を勧めました。一つは、今言ったように、戦時日本の外交が非常に困難であった。その苦労が余計に健康を害したわけですが、野上さんはどうしても承知しません。それで、当時、われわれ館員が無理に勧めて、野上さんをスイスにやったんです」
課長はゆっくり話した。眼を渋く細めたのは、当時の記憶を辿たどっているからであろう。
「すると、スイスの病院で亡くなられたわけですね?」
「そう。通知を受けたので、ぼくが遺骨を引き取りに行った。非常に苦労してジュネーヴに行きましたがね」
「課長さんは、病院の医者に会って、野上さんの最期の模様を訊かれましたか」
村尾課長の表情から微笑が消えた。それまで薄い口辺に漂っていたおだやかな表情は、何か急に冷たいものになったのである。もつとも、その変化は添田が気をつけて見ていたから捉えたということもできる。目立たぬ変化だった。
2022/08/19
Next