~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (03-07)
課長はすぐには答えなかった。やはり視線を遠くに投げたままである。
「無論、話は聴きました」
返事があったのは、暫くしてからだった。
「野上さんは、三ヶ月間入院していたのですがね。遂に、不帰の客となられたわけです。当時の日本と違って、あちらは医薬品も豊富だったと思うから、これは諦めなければならんでしょう。御遺族には気の毒だが、日本に送り返しても、とてもあれだけの手当は出来なかったでしょう」
村尾課長は眼を伏せて言った。
「課長さんが、病院に到着されてときは、もう遺骨になっていたのですね?」
「そうです。ぼくが到着する二週間前に亡くなっていたのですね。遺骨は、名前は忘れたが、何とか言う病院長の手から渡されましたよ」
今度は、添田がしばらく黙った。この部屋の壁に掲げてある富士山の絵を眺めていた。高名な洋画家が描いたもので、朱で山の輪郭がくくられていた。
「野上さんの最期は、どうだったのでしょう?」
新聞記者は、視線を課長の顔に戻して訊いた。
「至極、平静だったと聞きました。息をひきとるまで意識がはっきりしていてね、大事な時に仆れて申し訳がない、とそればかり苦にしていたそうですよ。無理もない、日本も臨終に近い重体だったからな」
村尾課長は、言葉を両方に掛けて、洒落しゃれたつもりかも知れなかった。が、課長自身も、添田も笑わなかった。
「当時の新聞記事によると」
と添田は言った。
「野上さんは、中立国に在って、複雑な欧州政局の下に、公使を補佐して、日本の戦時外交の推進に尽力、とありますが、具体的には、どういうことをなさったのでしょう」
「さあ」
村尾課長は、にわかに、ぼんやりした顔になった。久しぶりに微笑を見せたが、これは人が答えたくない時につくる、あの曖昧あいまいな薄笑いであった。
「そりゃ、ぼくには、よく分からない」
「しかし、課長さんは、当時、外交官補として、ご一緒にお仕事をなさったのでしょう?」
「それは、しました。しかしね、実際を言うと、野上さんひとりでやったようなものなのだった。平和な時の外交ではない。本国との連絡も、連合国側に邪魔されて不自由だった。一々、請訓しては居られない。勢い、野上さんの判断でやることになり、行動も自分だけになり勝だった。ぼくら、館員も、一々、相談を受けることもなかったな」
「しかし」
添田はねばった。
「課長さんは、野上さんの傍についていらしたのですから、野上さんが、どのような外交をしていたか、およそ判ると思うんです。それを聞かせて頂きたいんです、詳しいことでなくても、概略でも結構ですが」
「さあ、それは困るね」
村尾課長は今度は即座に答えた。
「これは、まだ公表する時期ではありません。終戦後、かなり経ってはいるが、まだ、いろいろと発表には差し障りがあるのでね」
「十六年経っていてもですか?」
「そりゃ、そうさ。当時の人がまだ生きている。その人たちに迷惑をかけることになります」
村尾課長は、そこまで言って、はっとして口を閉じた。微笑が急に消え、眼の表情が変わった。うっかりしたことを言った、という後悔の表情であった。
「迷惑を受ける人がある?」
添田彰一は、それに喰いついた。先方がドアを閉めようとするのに、こちらが素早く、隙間に片脚をがし入れて、それを開かせようとするのに似ていた。
「それは、どういう人たちでしょう? もう平気だと思いますがね。それとも、まだ、当時の外交の秘密が生きているのですか?」
添田は、皮肉を利かせて、課長を憤らせ、口を開けさせるつもりだった。
村尾課長は、腹を立てた様子はなかった。彼は静かに椅子から起ちかけた。尤も、この時、事務官が応接室の入口に姿を現わし、課長を呼びに来たからでもある。
「約束の時間だから、これで失礼します」
彼は、わざわざ時計を出して見た。
「課長」
添田彰一は呼び止めた。
「野上さんの当時の外交ぶりを公表すると迷惑を受けるというのは、誰ですか。それを聞かせて下さい」
「ぼくが、その人の名前をあげると、君は、その人の所へ話を聴きに行くつもりかね?」
村尾課長は、添田を眺めて眼を細めた。薄い唇が笑いそうにしていた。
「はあ、都合によっては」
「じゃ、言ってあげよう。会ってくれるなら君がインタビューを申し込むんだね」
「教えて頂けますか?」
「言いましょう。ウィンストン・チャーチルです・・・・」
村尾課長の広い背中が、応接室を出て行くのを、添田彰一はぼんやりして眺めた。眼に残っているのは、課長の皮肉な唇のかたちであった。
2022/08/20
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