~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (04-01)
添田彰一は、腹を立てて、外務省を出た。
ウィンストン・チャーチルに訊けか。── バカにしていると思った。
村尾××課長の表情が、まだ眼に残っていた。顔つきもそうだったが、言い方が官僚らしい皮肉なものだった。履歴は一高、東大の秀才コースである。そういえば、いかにも冷徹な秀才が言いそうな皮肉である。
添田は、外務省の横の舗道を歩いた。
後から、社旗を立てた自動車が寄って来た。
添田は独りでしばらく歩いてみたかった。が、今まで待たせた運転手への気兼ねもあって、帰すことも出来なかった。
「どちらへ回ります?」
「そうだな」
社にすぐに帰る気持ちはなかった。
「上野にやってくれ」
歩く場所が欲しかった。上のと言ったのは、漠然とその場所を考えてのことだが、実際に自動車が上野の坂を上り始めると、運転手から二度目の行先を訊かれた。
「どちらへ着けますか」
忙しい運輸部から出してももらっている自動車である。まさか散歩のためとは言えなかった。
林の向うに、青磁色の鴟尾しびを載せた博物館の屋根が見えていた。
「図書館通りで待ってもらおうか」
偶然に口から出た言葉だった。
添田は、学生時代に上野の図書館に通ったものである。学校を卒業して社に入ってからは、何年も行ったことがなかった。図書館の前から国電の鶯谷うぐいすだにへ抜ける道は、添田の好きな道の一つである。古いびょうがあったり、墓があったりした。
車は、博物館の前を素通りして、右に曲がった。
昔ながらの図書館の建物が近づいた。車は、古びた建物の玄関で停まった。
「お待ちしますか?」
「そうだな」
添田は、降りてから言った。
「帰ってもらおうか、時間がかかるから」
社旗を翻して車は走り出した。
添田は、入口の石段の所で立って居た。別に図書館に入る用事はない。通りは昔のままである。眺めていると、学生が四、五人歩いていた。
添田は、その道を歩くつもりでいた。外務省で村尾課長から受けた屈辱感が、胸にまだ黒いおりになって沈んでいた。何年も来なかった懐かしい道を歩きながらこの気持を散らしたかった。晴れた日で、陽射しも落着いているのである。
添田が歩きかけて、ふと心に浮んだのは、自分の立って居る場所が図書館だということだった。この現在の位置が、改めて彼に一つの考えを急に起させた。
古い図書館の中に入るのは、昔の想い出に浸るようなものであった。薄暗い中で入館票を貰うのも、何年振りかである。小さな窓口で、年老いた館員が黙って呉れるのである。その老人は、無論、添田が学生時代の人物とは違っていたが、同じように年老いているところは変わりはなかった。彼は懐かしくなった。
本を借りるのに、当時のやり方とは多少違っていたが、建物の古びていることは相変わらずである。添田は、学生たちの群れている中を入って、索引カードの並んでいる部屋に入った。当時より部屋は広くなっていた。
係が正面に居た。此処ここで自分の欲しい本の分類を訊くのである。
「昭和十九年ごろの職員録?」
係は、まだ学生服を着ていた。添田が通った頃に馴染んだ男は、係が変わったのか、めたのか、薄暗いその窓口の中には居なかった。
「それなら、分類の××号を見て下さい」
添田は教えられたカードのケースの前に立った。おびただしく並んだカードの棚の間を、昔のままの静かな足どりで何人かの人々がゆっくりと動いていた。
2022/08/21
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