添田は番号を伝票に記入し、本を貰うために別の部屋に行った。昔と変わりのない部屋である。其処にも添田が知っている顔は無く、やはり若い人ばかりで本の出納すいとうをやっていた。
自分の本が書庫から出て来る間、長い椅子の上に彼は待たされた。学生時代にも見かけたような老人が、やはり閲覧者としえt神妙に待っていた。若い人ばかりが多い中に、こういう老人は相変わらず一人や二人は必ず居るものと思えた。総てが暗く、黴かびの澱よどんだ空気なのである。
添田は、分厚い職員録を借り出して、閲覧室に行った。学生の間に割り込んで職員録を開いた。野上顕一郎が勤めていた中立国の公使館の項を探した。
当時にことで、在外交館は僅かだった。ヨーロッパでは五カ国にすぎない。添田は、次の名前を見出した。 |
公 使 |
寺てら 島じま 康やす 正まさ |
一 等 書 記 官 |
野 上 顕 一 郎 |
外 交 官 補 |
村 尾 芳 生 |
書 紀 生 |
門 かど田た 源げん 一いち 郎ろう
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公 使 館 付 武 官
陸 軍 中 佐 |
伊い 東とう 忠ただ 介すけ |
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添田は、それを手帳に書き取った。昭和十九年三月現在である。館員がひどく少ないのは当時の情勢を語っている。
この内、寺島公使は死亡している。野上一等書記官も死亡している。村尾外交官補は無論、現在の欧亜局××課長である。添田の知識に無いのが門田書紀生と伊東中佐の消息であった。村尾課長が野上顕一郎の死亡前後のことについて明言しないとなると、添田は、この書紀生と公使館付武官に訊くよりほかなないのだ。
村尾課長が、チャーチルに聞け、と言った言葉は、彼の胸にまだ刺とげとなって残っている。添田が、ここまで意地になったのは、野上書記官の最期を知りたいという最初の動機に間違いはないが、村尾課長の腐肉な言葉が彼を煽あおったといえる。
瀬田は薄暗い図書館を出た。穏やかな秋の陽ひだったが、外に出た時の眼に、それが眩くらむような明るさで映った。
添田は長い塀に沿って歩いた。この辺は、添田が図書館通いをしていた頃と少しも変わったいない。崩れた塀もそのままだったし、廃墟だった将軍の墓所が多少片付けられている程度で、殆ど昔のままである。歩いていて忙しそうな人に会わないのも、心が落着いた。学生が多かったが、中には、ゆっくりと歩くのを愉しんでいる女連れもあった。高い梢で銀杏の葉が風にゆれている。
添田は、それから始める仕事を考えていた。門田書紀生のことは、外務省に行けば分る。厄介なのは、伊東武官が現在どこに居るかということだ。この人を探し出すのには、相当、時日がかかるように思われる。
添田は、自分がこれからやろうとしている努力が或いは意味のないことのように思えた。なぜ、野上顕一郎にこのようにこだわっているのか。この一等書記官は、確かにスイスで死亡しているし、外務省でその死亡を公表していることなのである。
添田が、野上の死亡事実を追及する動機になったのは、彼が久美子から聞いた芦村節子の話からである。奈良の古い寺に、久美子の父野上顕一郎に似た筆蹟が遺っていたことだ。最初、それは簡単に聞き流したが、あとになって、そのまま捨てられないものが心に起って来た。その気持を完全に説明することは出来ない。
つまり、久美子の父によく似た筆蹟が奈良にあったことが、添田に、野上一等書記官の最期を知りたいという動機の暗示になったのはたしかである。
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2022/08/21 |
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