~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (04-04)
添田は平記者にすぎない。一方は、編集局長から論説委員になった大記者である。添田の社の先輩だといっても、地位には格段の相違があった。仕事の上でなら兎も角、滝氏に野上顕一郎のことを訊きに行くのは、あまりに唐突すぎた。
普通だったら、社の名刺を振り廻して、取材にかこつけても話を取りに行くところだったが、滝氏ではそれが出来ない。誰か伝手つてを求めなければならなかった。
社で滝氏の直系の子分は相当居る。添田はその中から比較的自分に近い人を探した。それには、現在の調査部長が適当だった。調査部長は、滝氏の直系である。添田とも知らない顔ではなかった。
調査部長は、添田の頼みを聴いて、紹介状を書いてくれた。それも名刺の裏に走り書きしただけである
「何を聴きに行くんだね?」
調査部長は、一応訊いた。
「滝さんが、戦時中、欧州に居た頃の話を聴きたいと思います」
調査部長は温厚な人だった。世界文化交流連盟常任理事滝良精氏は、いつも世界文化会館に来ている、と教えてくれた。
高台の静かな一角に、世界文化会館は建っていた。付近は、外国の公使館や領事館が多いから、閑静な場所である。ゆるやかな丘の起伏がそのまま道の勾配こうばいになっていた。坂道は甃を刻んでいる。
つたかずらの生えている古い長い塀が続き、茂った植込みがどの邸からも覗いていた。
事実、その界隈かいわいは、林の間に洋館が見え、其処から異国の国旗がはためいているといった、エキゾチックな地域である。
世界文化会館の建物の内が、すでに異国的であった。泊まっている客が外国人ばかりなのである。難しい規約を設けて、資格の有る外国紳士でなければ此処は利用出来ないことになっていた。旧財閥の別邸だった跡である。
添田が回転ドアに身を入れてフロントに立つと、事務員が三人ばかり、忙しそうに外人と話をしていた。
「どういう御用事でしょうか?」
ようやく客の用が済んだ一人が、待っている添田に向った。
「滝さんにお会いしたいのですが」
添田は、自分の名刺と紹介状を書いた調査部長の名刺とを一緒に出した。事務員は、電話で訊き合わせていたが、
「どうぞ、ろびーの方へお越し下さい」
とその方向に指を向けた。
二階がロビーになっている。日本式の廻遊庭園を見下ろすようになっているし、大きな庭石は、元の所有主が金にあかせてあつめたものである。
ロビーには、やはり外国の客ばかりが坐っていた。
滝良精氏が現われたのは、三十分ばかり待たされ挙句あげくだった。そろそろ退屈して大理石のフロア徘徊はいかいしたい欲望を起しかけた時だった。
滝氏は、頑丈な体格で、背が高い。眼鏡を掛けた顔はほりが深く、手入れの届いた半白の髪も、日本人離れした特徴のある面貌に相応ふさわしい。実際、添田が椅子から立ち上がって正面に向き合った時、圧倒されるくらい滝氏は堂々としていた。外国人の間に立ち廻って決してひけを取らないだけの貫禄かんろくを思わせた。
「滝です」
添田の名刺を指にまんで、理事は言った。添田が挨拶すると、
「お掛けなさい」
と椅子を手で示した。その身ぶりにも威厳があった。
「どういう用件ですか?」
世間話は一切抜きだった。そういうところも外国風なのである。
「滝さんがジュネーヴにいらしや時のことで、少しお伺いに上がりました」
添田は、滝氏の顔を真直ぐに見て言った。
「ほう、古い話を聴きに来るもんだね」
縁無ふちなし眼鏡の奥にある滝氏の眼は、穏やかな小皺を畳んでいた。血色が外国人並みにいいのは、ふだんの食べ物からして日本人離れしているせいかも知れない。
2022/08/23
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