~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (04-05)
「滝さんも御存じと思いますが、昭和十九年に、ジュネーヴの病院で亡くなられた、野上一等書記官のことでうかがったのです」
心なしか、縁無眼鏡の奥の眼がきらりと光ったように思えた。細い眼だったが、瞬間に鋭くなったのである。
暫く返事が無かった。ゆっくりとポケットを探したのは葉巻を出すためである。
「滝さんは、当時、向うにいらっしゃいましたね。野上書記官をご存知でしたか?」
理事は、ライターを鳴らして、うつむふちなしいて葉巻に火をつけた。
「お名前は聞いているが、直接には存じあげないね」
理事は、けむりを吐いて答えた。
「しかし、滝さんは、野上さんがあちらの病院で亡くなったことは、ご存知でしょう?」
「そりゃ聞きました」
という返事もすぐにあったのではない。かなり間をおいてからだった。
「野上さんの最期はどうでした? 大へん向うでお仕事のことで御苦労なさったと聞いていますが、やはりその過労で病気になられのですか?」
「そうだろうね」
がなかった。
「当時の、日本の外交のことは、滝さんが向うで特派員でいらっして、充分、御承知だった筈です。あの頃、公使が病気で帰国し、野上さんが公使代理だったと思います。だから、連合軍と枢軸国の間に立って、日本の困難な外交をやっていた野上さんの苦心は、滝さんが言質に居てよく御存じだったんでしょう」
「その通りです。野上さんは、終戦一年前に亡くなられたんですからね。そりゃ病気で亡くなるほど大変な苦労だったでしょう」
あまり気の乗らない口調で答えた。
「滝さんはジュネーヴにいらっして、野上さんの臨終の模様をお聞きになりませんでしたか?」
「知らないね」
その返事はすぐにあった。
「君、ぼくが知る訳はありませんよ。ぼくは新聞の特派員で、当時の中立国を通して、大戦の模様を本社に通信していただけだからね。一外交官の最期など興味もないし、また、公使館の方でも報せてもくれなかった」
添田は、今度も壁と向い合っていることを意識した。何と言っても、こちらの言葉がボールのように跳ね返るばかりなのである。滝良精氏は、クッションに背をもたせ、足を組んで、悠々としている。その恰好が添田を見下しているようにも見えた。
添田は、滝氏に会った最初から自分の甘いイメージを微塵みじんに壊されたのを知った。同じ社の先輩というところから、添田は、滝氏に親密感を持っていた。自分の居た社の記者が訪ねて来てくれたのだから、滝氏は快く話をしてくれるものと予想していた。
ところが、滝氏は意地悪く思われるほど最初から冷たかった。何を訊いても、こちらの思うよな返事をしてくれないのである。いや、それよりも答えようがなかったから止むを得ないが、その言い方には少しも後輩への思いやりがなかった。退社してからすでに五年、滝良精氏はもはや新聞社の人間から完全に離脱し、交際的な文化人として著名な存在に成り上がっていたためであろうか。添田は、ときどき総合雑誌などで見る滝氏の硬質な文章を。氏の人間に見る思いがした。
添田は、最初から滝氏を選んだことを後悔した。この人物に会ったのは失敗である。彼は出しかけていたメモをポケットに納めた。
「どうも失礼いたしました」
先輩への礼ではなく、新聞記者として会見した対手あいてへの挨拶だった。
「君」
クッションにり掛かっていた滝良精氏が、葉巻をくわえたまま身体を起こした。
「それ、なんだね、記事にするの?」
急にやさしかった。ここで声が変化したのである。添田は、初めは、個人的な問題だ、と断って訊くつもりだった。が、先方の官僚にような態度だと、こちらも意地になった。まだ若いのである。
幸い、これは、材料が揃えば新聞に書けることだし、融通性があった。
「そうなんです。少し調べて、面白かったら書こうと思ってるんです」
「どういう内容だね?」
滝氏は、添田の顔を覗いて訊いた。
「戦時日本外交の回顧、といったものをやってみるつもりです」
滝氏は、また葉巻を啣えた。眼鏡の奥の眼を閉じた。その僅かな間だけ、添田は、元編集長を滝氏に感じた。
「せっかくだが、駄目だろうね」
滝良精氏は、後輩記者に着想を粉砕した。
「なぜですか?」
「面白くないよ。それに、今ごろ、意義がないだろう。かびの生えた古臭い話だ」
さすがに添田は腹を立てた。これが滝氏でなかったら、いや、社の先輩でなかったら、彼は突っかかって行く所だった。
「御意見は大へん参考になります」
それだけ答えて、添田は、スプリングの利いたクッションから起ち上がった。辺りは外国人だらけの世界である。老夫婦がひそやかに話していた。若い夫婦が、子供を勝手に走り回らせていた。そうおいう馴染めない雰囲気の中である。
添田は、磨きの掛かったフロアを歩いて玄関を出た。自動車くるまに乗って、帰り途に着いたが、急に、腹立たしさが前にも増して起ってきた。この辺りの建物を見るように、滝氏は行儀はいいが、冷たいのである。同じ社に居た人間とは思えなかった。これが最初から、官僚出身の理事に会うはらだったら、覚悟が別なのである。先輩と思うから、腹にえかねた。
しかし、車の中で添田が気付いたことは、外務省の村尾課長も、今会った滝理事も申し合わせたように、最上顕一郎に死亡については話したがらない。村尾課長の場合は、皮肉な揶揄やゆで彼をしりぞけた。滝理事の場合は、あのフロアを固めている大理石のように、磨きの掛かった態度で冷たく拒絶したのである。
二人とも、なぜ、野上一等書記官の死に触れるのを厭がっているのか。今までそれほど強く思わなかったが、添田にはっきりした形をこの時から取らせたのは野上顕一郎氏死亡の真相の追及だった。
2022/08/24
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