~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-01)
添田彰一は、久美子の家に電話をかけた。電話口に出たのは久美子の母だった。
「まあ、添田さん、暫くですにね」
孝子は静かだが、明るい声で言った。
「ここんとこ御無沙汰しています。あ、そうだ。この間は御馳走になりました」
添田は礼を言った。
「いいえ、お構いもしませんで。その後お見えにならないので、どうなすっていらっしゃるかと思ってましたわ」
「いろいろと社の仕事でより紛れていたんです」
「お仕事がお忙しいの、結構ですわ。今日は久美子がちょっと留守をしていますので」
孝子の方から言った。
「お帰りは遅いでしょうか?」
「なんですか、久美子の友達に呼ばれて、その方のお宅に伺ったんです。そう遅くならないうちに帰ると思いますけれど」
「そうですか」
「あの、何かお急ぎの御用でしたら」
「いいえ、別に急ぐというほどではありません」
もの電話の主は野上顕一郎の妻なのである。その声をナマで聞いているのが、何か奇妙だった。
「よろしかったら、夕方からでも、うちにいらっしゃいません? うちの久美子も帰って来ると思いますわ」
「そうですね」
添田は、久美子に逢いたかった。
彼女の父親の野上顕一郎の死を知りたい、と決心した今は、なんとなおう久美子に逢いたいのである。逢っても彼女から何も聴けるわけはないが。
「ね、是非、そうなさいませよ」
孝子は、しきりと勧めた。添田もそに気になった。
「では、お邪魔いたします」
「そうですか、お待ちしてますわ」
添田は、約束通り、その夕方、久美子の家に向った。
── 久美子の家は、杉並の静かな通りにあった。付近は、幹の高い木立の群れが残っている。花柏さわらの垣根の続くひっそりした界隈だった。その一つの垣根の中に、彼女の古びた家が包まれていた。
門札には「野上顕一郎」と出ている。辺りは暮れていたが、添田を待っているのか、明るい灯が外まで洩れていた。
添田彰一が小さな玄関に立つと孝子が出て来た。この家には女中が居なかった。玄関の灯を背にした彼女は、添田をいそいそと迎えた。
「いらっしゃいませ。お待ちしてましたわ。さあ、どうぞ」
添田は靴を脱いだ。
通されたのは六畳の客間だった。狭い家だが、調度の置き具合などはいかにも落着いている。
「しばらくでございましたわね」
孝子は添田に挨拶した。
細面ほそおもてで寂しいおもざしだった。久美子に似ているが、それよりも古風なのである。母は若い時は綺麗だった、と久美子が言ったが、その通りにちがいなかった。
床には掛軸があったが、添田にはよく読めない漢詩である。この家の主人が外交官時代に引き立ててもらった或る老政治家の書だった。その前に香がゆるやかに立ち昇っていた。
「今夜は、久美子がまだ帰りませんのよ」
孝子は茶碗を置きながら言った。
「そうですか、いつもこんなに遅いんですか?」
添田は、の悪そうな顔をした。
「いいえ、いつもは早いんですけれど、どうしたのか、今日に限って遅うございますわ」
孝子は、すこし笑った。
「わたくしはまた、どこかに添田さんのお供をしているのか、と思ってましたわ。電話を頂戴するまで、そう考えていたんです」
「この前、お目にかかったきりですよ」
添田は真面目に答えた。
添田は、これまでこの家に遊びに来たことはあるが、夜の訪問は今が初めてであった。それも孝子だけなので、平気になれなかった。やはり気詰りである。
2022/08/24
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