~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-02)
「どうぞ、お楽にあそばせよ。そのうち、久美子も帰って参りますわ」
「はあ」
添田は、ぎこちない動作で抹茶まっちゃを飲んだ。
「今晩は、久美子さんもですが、実は、お母さまに用事があって来たんです」
添田は、孝子のことを、久美子の立場になって、お母さま、と呼んでいた。奥さんと言うのもおかしいし、野上さん、と言うのも妙だった。
「あら、そうですか。何でしょう?」
孝子は、御相伴ごしょうばんに飲んでいた茶碗を手許にいた。目もとに微笑を見せて、少し首をかしげた。
「この間、久美子さんから伺ったのですが、芦村さんが奈良で、久美子さんのお父さんの筆蹟によく似た文字を、ご覧になったそうですね?」
「ああ、節ちゃんね」
孝子は鼻に皺を寄せて微笑した。
なんだか、そんなことを言ってましたわね。お寺の芳名帳かなんかにあったんですって。その話、久美子がとても興味を持ってたようですが」
「そうなんです。実はぼくもそれを聞いて面白いと思ったんです」
添田は答えて、孝子の顔を見ていた。
彼女の夫の話なので、表情に変化があるかと思っていると、普通のままだった。添田が予期したような変化は起こらない。やはり静かなひとだった。
「添田さんまで」
孝子は眼を挙げて笑っていた。
「どうしてですの?」
「外国でお亡くなりになった御主人の筆蹟は特別だったそうじゃありませんか。たしか米芾べいふつという中国の古い書家の流儀だそうですね?」
「ええ、変わった字でしたわ」
「それとそっくりな字を書く人があるのは、面白いじゃありませんか。今どき、そんな古い字を習っている人があると思うと、ぼくらには案外です」
「そうかしら。米芾という人は、案外、有名じゃないでしょうか。でも、あの癖は、わたくしもよく知っていますが、ちょっと変わったいますわね。めいの節子なんか、主人たくがまるで生きているように、お寺を探して歩いたそうですわ」
「芦村さんの気持は、よく分ると思うんです」
添田は言った。
「やはり懐かしかったのでしょう。それで、ぼくもちょっと感動したのですが、こちらに御主人の筆蹟がありましたら、一枚、拝見させて頂けませんか」
添田の最初からの用事がそれだった。唐突に申し出たのでは無躾ぶしつけに見られるし、迂遠うえんな言い方をするとらちがあかない。結局、正直に言うほかはなかった。
「それはありますわ。なんですか、主人はしょっちゅう、赤い毛氈もうせんを敷いて、紙を置き、いつもわたくしに墨をすらせていましたわ。道楽なんです」
孝子は愉しそうな顔をした。
「お見せしますわ」
孝子は座敷を出て行ったが、すぐに戻って来た。手に包紙を抱いていた。
「これですわ。あんまり上手な字ではありませんが、とに角、お目にかけます」
包みをくと、筒のように丸めた紙が幾つかあった。孝子はその紐を解いたが、その丁寧な手つきは、夫の思い出をここに拡げる愉しさがあった。
添田は、それを見た。なるほど、変わった字である。あまり一般に馴染めない書体だった。
「こんな字が得意だったんですのよ」
孝子は、添田が眺めている横で言った。
「ちっとも感心なさらないでしょう?」
「いや、なんだか、変な書体ですが、惹かれそうなんです。あんまろ整いすぎた字だと、親しみがありませんが」
「それは、主人のせいではありませんわ」
と夫人は言った。
「お手本のお師匠さんがいいからでしょう。受売りですけれど、主人がこの変わった書家の書体を真似たのは、その中に一種の禅気といったようなものがあるからだ、と言ってました。わたくしは、いくら見ても分らないんです。だから、お前には眼がないんだ、と言って、よく叱られましたわ」
孝子の言い方には、まだ追憶の愉しさが含まれていた。
2022/08/25
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