~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-03)
「でも、添田さん、どうして主人のことを、そう気にかけて下さいますの?」
孝子は訊いた。
「終戦前に、中立国の外交官として、ずいぶん御苦労なさったんでしょう。ぼくは、そのこよに興味があるんです。もし、御無事でお帰りになったら、いろいろ面白いお話を伺えると思うんですがね」
「そうですね、主人はあんな風に、暇さえあれば古いお寺をまわっていたでしょ。ですから、多少、文学趣味があったかも分りませんね。学生時代は、同人雑誌なんかに関係していたことがある、と言ってましたが」
孝子はやはり愉しそうに話をつづけた。
「ですから、筆まめな方なんです。主人が外国から生きて帰っていたら、当時のことを手記にしていたかも分りませんね」
「そりゃ大変だ。そういうメモが出たら、貴重な記録になるでしょうね」
事実、敗戦前の日本の外交事情を、中立国に駐在している側から書かれた手記は、これまであまり無いのである。
「ぼくは、ああいう状態で亡くなられた御主人が、本当にお気の毒だと思います。実際、どれだけ御苦労なさったか分らないと思います。その苦労が、とうとうお身体をむしばんだのでしょう。学生時代からスポーツなどをなさって、頑丈な体格だったそうですね?」
「そうなんです。若いときはまるで山男みたいでしたわ」
「惜しかったですね。ぼくは、御主人のことから、終戦当時の日本外交官の仕事を調べてみたいと思いついたんです。自分ながらいい仕事だと思って、張り切ったんですが」
村尾課長や滝氏などが、妙にこの問題を忌避していることには触れなかった。
何故、彼らはそれに触れたがらないのだろう。野上顕一郎のことになると、当時の事情を知った周囲が、不思議と黙るのである。それも暗い顔だった。
眼の前に坐っている人は、その野上顕一郎の未亡人である。が、この人の顔は明るい。それは野上氏の死の実際を知っている人間と、知らされていない人間との違いのような気がした。
「久美子、遅いわね」
孝子は、時計を見た。
「折角いらしたのに、すみませんね」
「いや、いいんです」
添田は、少し顔をあからめた。
「また、いつでも久美子さんにはお逢い出来ますから。今夜は、この書を見せて頂いてよかったと思います」
添田は、いつかは野上氏の死をめぐる真相を突き止めようと思っている。これは孝子には言えないことだった。野上氏の病死には暗い何かが付きまとっている。何かがある。
「それはそうと」
孝子は急に添田の顔を見た。
「添田さんは、お芝居はお嫌いですか?」
「なんですか?」
「歌舞伎なんです。ちょうど切符を二枚送って頂きましたのでね、なんでしたら、久美子とご一緒なさったらどうかしら。明後日あさっての夜、ご都合つきません?」
母親らしい心遣いを見せた。彼女は添田を久美子の将来の結婚の相手として満足していた。
「二、三日前、外務省の方から、突然、送って頂いたんです。これまでそんなことがなかったので、びっくりしました。でも、久美子は喜んでいて、ぜひ、わたくしにも行けと言ってるんです。けれど、歌舞伎はそう好きではないので、添田さん、よかったら、久美子を連れて行って下さいません?」
「はあ、それは」
と言ったが、添田はふと気づいた。
「いま、切符はこれまで送って来ることがなかった、とおっしゃいましたね?」
「そうなんです、初めてですわ」
「送って下さった方は、外務省のどなたです?」
「お名前は書いてありましたけど、わたくしに心当たりのない方ですわ。きっと、主人の部下の方かも分りません。時折、そういうご好意を、突然、見せて下さる方があるんです。どなたかと思うと、主人に目をかけられたと言って、当時の部下の方だったと分りましたの」
その切符の送り主は何とおっしゃいます? こういうことを訊いては悪いかも知れませんが」
「いいえ、かまいません」
孝子は起っていってその封筒を持って来た。
2022/08/25
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