~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-04)
「これです」
添田は封筒の裏を返した。それには「外務省 井上三郎いのうえさぶろう」とあり、達者なペン書きだった。
「これには手紙が入っていませんでしたか?」
添田は訊いた。
「いいえ、それはなかったんです。切符二枚が封筒に入っていただけですわ」
「おかしいですな。何か手紙でも入れて来そうなもんですがね」
「いいえ、ときどき、こういうことがあるんですよ。思わぬときに立派な贈り物が来りして、戸惑ったりします。やはり手紙など書くと、御自分のことをいろいろと言わなければならないからでしょうね。殆ど、黙ったまま贈って下さるんです」
添田は、そういう贈り方もあるものかと思った。生前の野上顕一郎に多少とも恩義を受けた者が、わざと自分のことを隠して、こっそりと未亡人に贈りたいのかも知れない。手紙はわざと入れないのが心遣いなのであろうか。
しかし、この二枚の観劇切符は、添田の心に引っかかった。
「この井上三郎さんという人はご存知ないんですね?」
「存じません。一度もお見えになったこともなければ、文通もありません。きっと、主人の昔の関係の方だと思いますわ」
「折角ですが、これはやっぱりぼくは頂戴しないことにします」
「あら、どうして?」
孝子は眼をみはった。
「この贈り主の方の意志どおりに、お母さんと久美子さんがご一緒に行かれた方がいいと思いますよ。それが贈り主の好意を受けることになると思います」
孝子は考えていた。
「そうかも知れませんね」
と小さく頷いた。
「では、そうします。久美子とわたくしと二人で参りますわ」
「ぜひ、そうなさって下さい。ぼくはいつでもお供が出来ますから」
ここで添田は少し笑った。
「ところで、その切符をちょっと拝見させて下さい」
添田は、孝子の手からそれを受け取った。
座席番号は、3扉の「ほ」24と25とだった。添田はそれをメモに控えたかったが、孝子の手前では、何か下心を気取けどられそうなので止め、しっかりと記憶した。
「いい席ですよ。これは中央だと思います。見やすい所ではないでしょうか」
「そうですか、ありがたいわ」
3扉の「ほ」24、25 ── 添田は口の中で呟いた。
「久美子、どうしたのかしら? ほんとに今晩は遅いわ」
孝子が顔を曇らせた。それは多少、添田への気兼ねもあった。
ちょうど、その言葉に合わせたように電話が鳴った。孝子がそこまで起って行くと、久美子からだった。
「あら、久美子、どうしたの?」
添田は座敷に坐って、声を聴いていた。
「そう、節子さんとこなの。それならいいけれど、もっと早く連絡しなくちゃ駄目よ。いま、添田さんが来ていらっしゃいます」
たかこの声が跡切れたのは、久美子の話を聴いているからである。
「そう、じゃ、ちょっと待ってね」
孝子が帰って来た。
「久美子ったら、しようがないんですよ。姪の所に行ってるんです。なんですか、節子の主人が夕御飯をんだとかって。添田さん、ちょっと出て頂けます?」
「はあ」
添田は起った。
「添田さん、ごめんなさいね」
受話器の奥で、久美子の声が響いた。
「いや、ぼくは突然、伺ったんです。いま、芦村さんのお宅ですか?」
添田は言った。
「そうなんです。おにいさまが御飯を御馳走して下さるって電話を頂いたので、こちらに来ました。すぐに帰るといいんですけど、まだ時間がかかりそうなの」
久美子の声は快活だった。
「かまいませんよ。ぼくは、もうそろそろ失礼いたします。ああ、そうだ、そちらの奥さんに、ぼくがこの間、伺った礼を言っておいて下さい」
「そう伝えます。すみません。では、この次ね」
2022/08/27
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