~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-05)
添田彰一は、二日後の夜、歌舞伎座に行った。
新聞社での仕事はあったが、それを早々に済ませた。切符はやっと二等席を手に入れた。其処は、側面の方の扉に近い一ばん後部である。
3扉の「ほ」24、25咳は前方に近い中央の席だった。
気をつけて見ると、そこに孝子と久美子が並んで坐っている姿があった。
今日の久美子は、赤いスーツで、いかにも若い女性らしかった。孝子の方は、黒っぽい羽織である。残念なことだが、今夜の添田はあの二人に近づくことが出来ない。そういえば、二人に顔を見られることも避けなばならなかった。
添田の席からは、一階の全部の客が殆ど見渡せる。幕が開いているので、客は当然舞台に首を向けていた。
添田の期待は、この観衆の中の誰かが舞台よりも孝子親子に顔を向けていないか、ということだった。

添田は、昨日、一日がかりで外務省の名簿を調べた。また、外務省出入りの記者にも訊いた。すると、外務省のどの部にもどの課にも、井上三郎という人は存在しないとのことだった。愕きはなかった。添田が想像した通りなのである。
その予想は、今夜もつづいている。孝子と久美子の席を誰かが凝視していないか。また、この親子に話しかける者は居ないか。彼の注意はそれだった。
添田が入ったときは、すでに第一幕が開いていた。華麗な舞台である。満員の席の客は例外なく舞台に気を奪われていた。その間、よそ見をしている客の姿はなかった。添田の位置が最後部なので、一階だけは監視出来るのである。ただ、残念なことは、二階と三階とが彼の視覚に入っていないことだった。此処からは左右両側の二階と三階の客が見える。が、彼の頭の上に出張っている天井の上は、どう藻掻もがいてみても、彼の視線に入らない。
第一幕は無事に済んだ。孝子と久美子は熱心に見ていた。ときどき、二人でプログラムを見ながらささやき合っていた。
愉しそうだった。
それから十分の休憩となった。多数の客が席から立って廊下へ出る。孝子と久美子もやはり席を立って、通路をこちらに歩いて来た。添田はあわてて席をのがれ、隅の方に行った。
母娘おやこは、十分の休憩を、廊下の端にある溜り場のソファで過していた。多数の観客が立ったり坐ったり歩いたりしているので、添田が遠くから眺めているぶんには気づかれることはなかった。
誰も孝子母娘に話しかける者もなければ、また、二人の前に足を止める者もなかった。
添田は、さりげなく辺りの客を見廻した。歌舞伎座の客は、一種の贅沢ぜいたくな雰囲気を持っている。家族連れも居れば、芸者を連れた客も居た。華やかな振袖を着た一団の若い女性の群れもある。それに、どこかの会社の招待といった団体の人達が、胸に飾りボタンを付けてかたまって歩いていた。
そのようなさまざまな客の後から、添田は母娘を注視した。そっと見廻すが、添田のように遠くから母娘を凝視している者はなかった。大ていの者が、それぞれの話にひたっていたり、煙草を喫ったり、プログラムを見たりしていた。
開幕のベルが鳴った。人々に連れて孝子母娘も扉の方に行く。添田はまた隠れた。
第二幕の間も同じことだった。添田がうしろから見ていて、赤いスーツの肩を見せている久美子と黒っぽい羽織の孝子に目を向けている観客はやはり無い。添田は、賑やかな舞台よりもその方ばかりを注意し、眼にうつる限りの観客の動作ばかりを注目していた。
添田は後悔してきた。というのは、舞台の照明は明るいが、観客席は薄暗い。のみならず、この席にいては、二階、三階が盲点になっている。もし、添田の予想する人物が彼の頭の上に居るとなると、折角だが、彼の監視が役立たなくなる。
添田はあせった。彼は、途中から抜け出して二階や三階を駈けずり廻りたかった。が、開幕中では、それは許されない。
とに角、その幕は、添田の視野の中に格別の変化が起らずに終わった。幕が降りて、また十分の休憩となる。場内の照明が明るくなり、観客は席を起ち始めた。
添田が見ると、孝子と久美子とが今度も歩いて来た。添田はまた隠れねばならない。添田が見守っていることを知らない二人の様子は、彼を残念がらせもしたが、また愉しませもした。
二人はまた廊下に出た。添田は、人々の間に見え隠れしながらいて行く。今度は、二人は食堂の方にお茶を喫みに行くようだった。食堂は狭い。いつもの添田だったら、つづいて入るところだが、今日は、入口の見える所にさりげなくたたずまねばならなかった。
相変わらず、廊下には、着飾った婦人や、気取った男や、芸者や、団体客がそぞろ歩きをしている。
添田は煙草をい、入口の見えるソファに腰掛けていたが、絶えず眼の油断はなかった。
五分間ぐらい経って、また久美子の赤いスーツが食堂から現われた。添田はまた退避した。ちょうど、その時、
「よう」
と声を掛けた者がある。部は違うが、同じ社の者だった。
「やあ」
添田は、仕方なしにその前に立った。
困ったことに、男は話し好きである。添田は迷惑しながら、眼は孝子と久美子の方に走らせていた。そのうち、廊下の曲がり角に母娘の姿は消えてしまった。添田は引き留める対手あいてをいい加減に捨てて、あとを追った。
2022/08/27
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