~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (05-06)
ところが、添田が目標にしていた久美子の赤い色が見えないのである。彼は狼狽ろうばいした。
席に帰ったのか、と思って扉を開けてみたが、其処に見当らなかった。居残った観客の間の何処にも姿がない。
添田は廊下に出た。それから、少し大股で別の角を廻った。その途端に、棒立ちになった。眼の前の廊下に久美子の赤いスーツが見えたのだ。孝子の上品な着物もその横にあった。が、今度は二人だけで話しているのではなく、対手があった。添田が眼をむいたのは、母娘とむかい合わせになって立ち話をしているのが、なんと、外務省欧亜局の村尾課長だったことである。
添田は、自分の位置を変えた。朱の太い柱の蔭なので、安全だった。其処から見える村尾課長は、添田が会った時の冷たい皮肉な顔とは違い、ひどく如才なげな話し方をしていた。
村尾課長は、煙草をくゆらしながら孝子と話している。その愛想のいい顔は、添田が会ったときとはまるで違う。しかし、これは当然で、村尾課長にとっては、孝子はかつての先輩の夫人である。また、野上一等書記官の遺骨をジュネーヴから持って帰ったのも嘗ての村瀬外交官補である。そのような因縁から、二人が歓談しているのは当り前だった。
村尾課長も今夜は観劇に来たらしい。見たところ、課長は一人で、別に同伴者は居ないようだった。尤も、他の方に行っているのかも知れないし、座席に残っているのかも分からなかった。が、今のところ、課長と孝子母娘は偶然に廊下で行き合って挨拶を交わしているのである。
孝子は、永い間、村尾課長には会っていない、と聞いていた。だから、この偶然の出遭いはは懐かしさがあふれていた。
村瀬課長はにこにこと笑いながら話している。絶えず、添田と三人の間には通行者があって邪魔されるが、見たところ、それは何年ぶりかに出会った知人同士が久闊きゅうかつを述べ合っている光景だった。久美子は母親の横に控え目に立って、微笑をうかべて聴いている。
その立ち話は、時間にすると、およそ五分ぐらいであったであろう。やがて開幕のベルが鳴ると、課長は孝子に丁寧に頭を下げた。話し声はこちらには聞こえない。その様子から察して、丁寧だが行きずりの挨拶程度であった。
廊下には人が少なくなっている。添田も其処を離れねばならなかった。
村尾課長と別れた孝子と久美子とは、こちらの方へ引き返して来る。添田はまたあわてて別な所に移った。母娘の表情には、久しぶりに会った夫の旧友との話の余韻が、微笑となって残っている。事実、孝子にとって、懐かしかったに違いない。
芝居は最後の幕になった。
添田はやはり母娘への注視を怠らない。しかし、変化はなかった。添田は、ろくに舞台の方を眺めないで、観客席の方ばかりを注意していた。添田が期待したことは、彼の見ているところでは遂に起こらなかった。
添田は賑やかな舞台の動きをぼんやり眺めながら考えた。村尾課長が此処に来たのは偶然であろうか。
「外務省、井上三郎」という名前が、あるいは村尾課長が出したのではないかと、ふと思ったのだ。しかし村尾課長だったら、堂々と自分の名前を書く筈である。今、課長に会ったので、そこに結び付けてみる自分が少し勘ぐりすぎているような気もした。
それとなしに眺めていると、添田の視野には村尾課長の姿はない。彼もやはり添田の上に張り出している天井の座席に納まって居るのかも知れなかった。添田は、なんとかして上に行ってみたかった。
開演中だが、彼は座席をそっち立った。遠慮して通路を通り、ドアの外に出た。
階段を登り、二階に上がった。
正面のドアを静に開けた。其処は二階の座席が後から一望に見える位置だった。舞台は下の方に沈んでいる。添田は、扉に背をもたせるようにして眺めた。
此処も階下したの観客と同じように、一心に舞台の方に顔が向いている。この位置からすると、孝子と久美子母娘の席は上から眺められた。添田は仔細に気を付けて見たが、どの観客も舞台を熱心に眺めているだけで、彼が期待している現象はなかった。
ようやく村尾課長の後ろ姿を発見した。それは正面の一番前の列だった。両脇を注意して見たが、片方は若い婦人で、これは夫らしい男と、ときどき、私語を交わす。片方は着飾った若い女で、その連れの男とのつえい合いから見て見て、芸者のようだった。この二人も、ときどき、話し合っている。その間、課長は、始終、一人で誰とも話していない。つまり、村尾課長はただ一人で来ているのである。
この時、紺の制服を着た少女が、添田のそばにやって来た。
「恐れ入りますが、お座席の方にお帰りねがいとうございます」
「人を探しているんでね、もう少し此処に立たせてもらえないか?」
「それは、ちょっと困るんでございます」
懐中時計を片手に持った少女は、几帳面きちょうめんに言った。
「開演中は、お立ちになってはいけないことになっております。恐れ入ります」
添田は仕方なしにドアを開けて外に出た。
添田は階下に降りた。そのまま、また自分の席に帰る気がしなかった。廊下には僅かな人達しか見えない。廊下の脇に据えたソファに腰を下ろして、煙草を喫いながら話している人ばかりだった。添田は、その廊下を歩いて休憩室の方へ行った。。別に目的はない。この舞台も、あと十分か十五分であろう。それは終わるころ、また孝子母娘を見まもるつもりだった。
添田が入った所にも人がまばらだった。小さな展示場のようなものがあって、俳優の似顔や写真が並べてある。添田は、広い所で一人で煙草を喫った。
そのとき、外国人の一群が入って来た。いずれも夫婦連れのようである。添田は、その十人ばかりの人たちをぼんやりと見ていた。
2022/08/28
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