~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-02)
添田彰一は、その朝、目をさまして、朝刊を手に取った。昨夜ゆうべは、歌舞伎座に孝子と久美子の様子を見守り続けたが、結局、彼が思うような現象は母娘おやこの周囲に起こらなかった。
半分は失望し、半分はどこかに安心を覚えた。
結局、これは秘密に行動したことなので、久美子に話しかけたいが、最後までそれは出来なかった。家に帰って寝たのがかなり遅かったのである。
添田は、自分の仕事なので、朝刊を取っても政治面だけは丹念に読んだ。その記事に飽いて、社会面を見ているうちに、何気なく一つの見出しが眼に着いた。
『世田谷の惨殺死体の身許判る』という見出しだった。
世田谷で男の絞殺死体が発見されたとこは、彼も昨夜の夕刊で読んでいる。だから、この朝刊の見出しを見たときただ無感動に被害者の身許が判ったことを知るだけだった。それでも彼はやはり記事を読んだ。
それによると、被害者は、奈良県大和郡山市××町雑貨商伊東忠介(五一)という名前になっている。
添田彰一は、一旦、新聞を枕元に戻した。
さて、これから起きようかな、と思っていると、ふと、彼は妙な気持に襲われた。いま読んだ「伊東忠介」という名前である。どこかで聞いた名前だった。確かに、前に一度、何かでこの名前を読んでいる。
添田は職業柄いろいろな人に会う。名刺を片っ端から貰うが、他人の名前の物覚えはあまりよくない方なので、今もその記憶があるのは、前に貰った名刺の一人かとも考えた。
だが、どうもはっきりした記憶がよみがえらない。添田は、長いこと考えていたが、それを諦めた。
彼は起きて洗面所に行った。その間にも、今の名前が頭の中から吹っ切れずに気持悪く残っている。
顔を洗い、タオルを帯から抜いて顔に当てた瞬間だった。今までどうしても考えつかなかった新聞記事の名前が急によみがえったのである。
伊東忠介 ── 確かに自分が上野の図書館で書き抜いた職員録の名前の一つだ。
伊東忠介とは、野上顕一郎が一等書記官として勤めていた中立国の公使館付き武官の陸軍中佐ではないか!
添田彰一は、自分であっと声を出して叫び、顔色を変えた。
2022/08/30
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