~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-04)
添田がしばらくそこに立って居ると、近くの農夫が彼の姿を振り返り振り返りして通り過ぎた。添田は畦道を歩いて、往還に待たせてある車に乗った。
「どちらへ?」
と運転手は訊いた。
「品川だ」
車はバスとすれ違いながら走り出した。
この道順は、あるいは伊東忠介が来たかも知れない道を逆に進むのである。自然と、添田の顔は窓の外の景色を調べる眼つきになっていた。
品川駅前の筒居屋という旅館は、小さな安宿だった。駅前とは言っても、街の通りの後ろに引っ込んでいる目立たない裏通りだった。
主人は、四十七、八の痩せた男だった。安物のジャンパーを着て、奥から出て来た。
「まあ、お上がり下さい」
添田の来意を聞いて、主人は如才なく勧めた。
安宿ながら、このごろのことで、玄関を上ると、左手に客待ち用の応接室みたいな所がある。添田はそこに通された。ずんぐりした頬の赤い女中が渋茶を汲んで来た。
「亡くなられたお客さんのことでは、警察の方がずいぶん見えまして、いろいろ訊かれましたよ」
と主人の筒井源三郎は苦笑して言った。眉の濃い、頬骨の高い男であった。
「伊東さんは、ここに何日御滞在でしたか?」
新聞記者という職業は、こういう時に便利である。当人に何ら縁故のないことでも自由に訊ける。
「二日ばかりでございましたよ」
主人は濃い眉の下に大きな眼を動かして答えた。
「そのとき、どういう様子でしたか?」
添田ははなるべく丁寧に訊いた。
「なんですか、東京で訪ねる人があると言って、一ン中、出かけておられました。お郷里くには大和の郡山だそうで、そのために東京に出て来られたようなお話でした」
この返事は新聞にも載っていたことである。
「だれを訪ねるか、ご存知なかったですか?」
「いや、それは手前どもは伺っておりません。なにしろ、お帰りはかなり遅うございましたよ。最初の晩は十時ごろにうちにお戻りになりました。そのときは、相当疲れていらっしたようですね」
「どの方面に行っていたか判りませんか?」
「そうですね、なんでも青山の方へ行った、と言って居られました」
「青山?」
添田は手帳につけた。
「しかし、青山だけでしょうか? 朝から晩までかかったとすると、相当長い時間のようですが」
「それなんです。御当人は訪ねて行っても、あまりその結果が思わしくないような様子で、浮かぬ顔でお戻りのなりました。明日も訪ねる所があるが、早く行かないと先方が出勤して留守になるから、とも言っておられました」
「そうですか」
それは初耳だった。すると、伊東忠介が訪問する相手の一人は会社勤めの人間らしいのだ。
「その自宅というのはどこか、聞きませんでしたか?」
「そりゃ聞きませんでしたな。ただ、その方とは別かも知れませんが、伊東さんはこうも言っておられましたよ。田園調布でんえんちょうふに行くには、どういう線に乗った方が一番近いか、と女中に訊いたそうです」
田園調布 ──
青山と田園調布。──
青山と田園調布とには一体誰が住んでいるのか。勤人とは誰のことであろう。

添田彰一は、社に二日間の休暇届を足した。
東京発大阪行「 彗星 すいせい 」は二十二時発である。添田はその列車に乗る前に、もう一度、世田谷の殺人現場に行ってみた。午後七時ごろだった。
わざわざ、夜を選んで行ってみたのは、昼間とは違う印象を確かめたかったからである。つまり、殺人時間が夜間なので、その条件で現場に立ってみたかった。
自動車 くるま を往還に待たせ、添田は小さな畦道に歩いた。
思った通り、昼間の様子とはやはり違っている。雑木林が以外に真黒いかたまりになって、 野面 のづら の上に盛り上がっていた。辺りには田圃が拡がり、その果てに、人家の灯が散って見える。
近くの農家の黒い影には、わびしい灯が隙間から洩れていた。昼間では近い距離だと思ったが、夜だと、ひどくこの場所と人家との間に 間隙 かんげき があるように見えた。遠くの公団アパートの灯が夜の海に浮んだ汽船のように積み重なっている。
人ひとり通らない道だった。離れた往還に、走る自動車のヘッドライトが、ときらま、行き交うだけだった。このような暗い条件の中で、伊東忠介が自分の意志で歩いて来ることはなさそうである。ただ、昼間来た時の感想と違ったのは、被害者の伊東忠介が相当大きな声を出して抵抗しても、離れた人家には聞こえないだろうという考えだった。
道路から、わずか五百メートル入っていても、夜の方がずっと遠い感じがする。それに、この近所は早くから雨戸を閉めるらしい。
添田は こみち の奥を見た。そこにも黒い森が繁っていて、 の間がくれに農家の灯が一つ二つ洩れているだけだった。離れた所にアパートの灯があるが、むろんここまでは届きそうにない。伊東忠介は特別な理由がない限り、このような場所に自分の意志で歩いて来ることはなさそうだった。
2022/08/30
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