~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-05)
添田彰一は、東京駅から予定通り急行で大阪に出発した。身代を取れなかったので、よく眠れなかった。添田は乗り物の中では熟睡できない性質たちである。それでも熱海あたみの灯が過ぎた頃から、うとうとし始めた。夢を見た。
暗い野面で、灯が遠くにあった。その中を添田が一人の老人と歩いている。老人とは何も話をしなかった。いや、したようにも思える。が、とにかく、その言葉ははっきりとはわからない。老人は背がかがんでいた。が、脚は若者のように元気だった。位の道を、いつまでも歩いているところで夢は切れた。妙な夢だった。
夢が終わって、横に居た老人が、伊東忠介らしいとは思ったが、添田は伊東忠介の顔を知っていない。目がめても夢の印象は消えていなかった。暗い中を自分と一緒に黒い人影が大股で歩いていたことだけは、眼がさめても覚えていた。
大阪には九時前に着いた。
添田はすぐに奈良行きの電車に乗った。関西に来たのも久しぶりである。河内かわち平野には刈り取った稲が野積みにされていた。生駒いこまトンネルを過ぎると、あやめ池付近の山林も紅葉しはじめていた。西大寺さいだいじ駅に来て乗り換えた。
郡山近くになると、城の石垣が電車の窓に流れて来た。幾つもの四角い池が、人家の間に空の色を映して過ぎた。金魚の養殖場だった。「菜の花のなかに城あり郡山」添田はこの近くに来るたびに、許六の句を想い出す。この地方特有の切妻造りの壁が方々に見えていた。
女子学生が四、五人、踏切で待っていた。添田は、久美子を想い出した。
添田は、駅の前から商店街の方向に向った。
往来に奈良行きや法隆寺行きのバスが通っていた。このような標識を見ると、添田彰一は、旅に出たという感じを深くする。
伊東忠介の家は、商店街が少し寂しくなった所にあった。見るからにあまり流行はやりそうもない雑貨屋だった。「伊東商店」と書いてあるので、すぐ判った。
添田彰一が入って行くと、店先には、三十過ぎの背の低い女性が坐っていた。彼女は蒼白い顔をして、浮かぬ表情で往来の方を眺めていた。添田は、彼女が伊東忠介の養子の細君だと、すぐ推察した。
添田が名刺を出して用件を言うと、細君は眼を丸くした。
「わざわざ、東京から来やはりましたか?」
ここでも新聞社の名刺を出したので、先方にそれほど無作法には受け取られなかった。ただ、彼女をおどろかせたのは、東京の新聞記者が今度の事件で、わざわざ郡山くんだりまで話を聞きに来たことだった。
「そうでんな、いま、主人が、おとうはんの始末に東京に上がってますさかい、くわしいことは申し上げられまへんのやけど」
と彼女は、添田の問いに重い口をぽつりぽつり動かした。
「警察の方が見えた時も言いましてんけんど、おとうはんが東京に行きやはるとき、だれぞお人に会いに行く言うてな、そら、張り切ってなはりましたわ。その人はだれや、言うてわてらが訊きましたが、ちょっと知り合いや、いま言えんが、今度、帰ったら話したる、言うて、わてらにはなんにも聞かしてくれはらしめへんでした。おとうはんはやさしい人やが、元、軍人やさかい、そら、頑固なところもおましてな」
「上京は急に思いつかれたのですか?」
添田は訊いた。
「そうだす。にわかに思い立ちはって、そら足元から鳥が立つようなことでした」
「伊東さんが誰かを訪ねて東京においでになるといおう思い立ちには、何かその動機のようなものに心当たりはありませんか?」
添田は熱心に訊いた。
「そうでんな」
養子の女房は丸い顔をかしげていたが、
「そう言えば、東京行きをわてらに言いやはった二日ぐらい前でしたやろか、この近所のお寺まわりをしやはってな」
「なに、お寺まわり?」
「そうだす。おとうはんはそんなことが好きで、ときどき、奈良あたりに遊びに行きやはりました。そうそう、上京の前ごろから、一だんと多うなりましたわ。そんで、その日は、夕方、帰りはったが、なんや知らん、えろう考えて、自分の部屋でつくねんと閉じもっていやはりました。それからだんねん、急に、わいはこれから東京へ行って来るさかい、と言い出しなはったんは」
「その奈良の寺は、どこへおいでになったんでしょうか」
「それはほうぼうでんが。古い寺がえろう好きな人ですさかい、どこぞというて決まっていめへん」
「そうですか。ついでにお伺いしますが、伊東さんは前に軍人だったと、今おっしゃったようですが、外国で、武官をしておいでになったことがおありでしょう?」
「へえ、そんなことも聞きましたな。そやけど、おとうはんは、あんまり昔のことはわてらには話してくれはらしめへん」
ここで気づいたように嫁は言った。
「わてらは、伊東忠介とはほんまの血のつながりはおまへんでな。主人うちが養子になっているところへ、わてが貰われて来ましてん。取り婿、取り嫁だす。そんで、おとうはんは過去のことをあんまり話すことはおまへんでした。そやさかい、わてらも、おとうはんの兵隊時代のことは、くわしゅうは知ってえしめへん」
「なるほど、そうですか」
添田彰一は、じっと聴き入っていた。出された茶碗のふちに秋の陽が鈍く当たっている。畳に上に一匹、ぬかのような虫がっていた。
「それで、伊東さんが、今度、ああいう不幸な亡くなり方をされたのですが、それについて、何かお心当たりはありませんか?」
「へえ、それは警察の方もいろいろと訊かはりましたが」
と嫁は眼を伏せて言った。
「どうにも、わてらには心当たりがおまへんわ。おとうはんはええ人やし、だれにも恨まれるような方ではおまへん。今度のことは、まるで夢みているような具合だす」
2022/08/31
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