~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-06)
添田彰一は、タクシーを走らせて唐招提寺に来た。
いつ来ても、この道は静かである。林の奥につづいているこみちには誰も歩いていなかった。歩くと靴の下で、落ちた木の実が鳴るのである。
絵葉書やお守りなどを売る小さな家があった。以前から変わらぬ場所だった。
添田は家の中を覗いたが、誰も居なかった。前に絵葉書や灰皿などの土産物が並べられてある。芳名帳は奥にしまってあるとみえ、そこには出ていなかった。参詣人が少ないので、番人はどこかに行っているらしかった。
添田は、番人を探すつもりで歩いたが、どこにも姿はなかった。脚をそのまま動かして金堂の横に出た。深い軒の暗い下には、黒い木の実が粒になって散っていた。森閑として音一つ聞こえない境内である。鼓楼や講堂が落着いた朱色を見せて、穏やかな秋の陽を照り返していた。地面に映っている影も柔かいのである。
画学生らしいのが一人、鑑真堂がんじんどうの石段の前に腰を下ろしてスケッチをしていた。
添田は、ぶらぶらと境内を廻った。やはり坊さんには行き遇わなかった。金堂の表側に当たる吹抜きの柱に出た時、急に、目の醒めたような色に出会った。これは西洋婦人が三人、派手な色彩で歩いていたのである。
空は秋晴れだった。葉を落とした梢と常盤木ときわぎの茂みとが重なり合い、蒼い空にわびしいマツスを描いていた。
木犀もくせいがかすかに匂っていた。唐招提寺は、朱と白の調和の寺である。あまり手入れの届かない深い木立に囲まれて、その美しい色彩が落着いた諧調を沈ませているのである。
添田彰一は歩いた。とこどき電車の音がする以外、声のない寺の境内を、ゆっくりと廻った。自然と伊東忠介のことを考えた。伊東忠介は誰に会いに東京に行ったのであろう。品川の宿で聞いたところでは、二つの地名と、それらしい職業を推定していた。
伊東忠介は、その上京に当たっても、養子夫婦には何も告げていない。彼が東京行きを思い立ったのは、その二日前に奈良の寺に遊びに行ってからだという。奈良の寺廻りと彼の出京の原因とは、あるいは直接な関係がないかも知れない。だが、添田には、どうも東京行きの動機が伊東忠介の寺廻りにあるような気がした。伊東忠介は、奈良の寺を廻っているうちに、誰かを見かけたのではなかろうか。その誰かに会いたさに東京に出る決心になったのではなかろうか。
彼は、その人物とは、あまり話をしなかったのかも知れない。だが、彼の方では、相手にぜひ会いたかったのであろう。添田には、その人物に、おぼろげな推測があった。
再び、小さな寺務所の前に出た。
今度は、老人の番人が居た。しなびた顔で火鉢を抱え、つくねんと坐っている。咽喉のどの下に重ねた白いえりが秋の冷たい空気を感じさせた。
添田が絵葉書を求めると、
「遠方からお詣りでっか?」
と老人の方から話しかけて来た。
「東京からです」
添田は愛想よく答えた。
「へえ、そりゃ御遠方からわざわざ」
老人は絵葉書を出しながら言った。
「東京の方からは、ずいぶんお詣りにみえます」
添田はその辺を見廻したが、やはり芳名帳は無かった。
「すみません、お詣りした記念に、一筆、記帳させていただきましょうか」
「へえ、どうぞ」
坊さんは、膝の下の見えない所から芳名帳を取り出した。すずりも添えてくれた。
添田は、かなり手垢の付いている緞子どんすの表紙の帳面を開いた。中にはさまざまな人の名前が連記されていた。
添田は、日付に合わせてそれを繰った。果たして「芦村節子」ときれいな筆蹟でしるされてあった。添田は久美子の従姉に逢ったような気持になった。
添田は心をふるわせて、その二、三枚前をめくった。その前もめくった。期待した名前はなかった。芦村節子が見たという「田中孝一」の名前が見当らない。彼は微かに狼狽した。もう一度、繰って見た。無かった。見落としかも知れなかった。もっと前からやってみた。が、何度やっても眼にはれなかった。
添田は、寺務所の坊さんが不思議な顔つきをしているのを構わずに仔細に点検した。
或る場所に来て、彼はあっと声をあげるところだった。その一枚分だけが 剃刀 かみそり で切り取られているのである。切断された部分は、綴じ込みの部分に僅かに残っている。その切れた切口から察して、安全剃刀でも使ったらしかった。
あきらかに誰かが「田中孝一」の著名のある一枚だけを切り取って持ち去ったのである。
添田彰一は眼を上げた。坊さんはやはり 怪訝 けげん な眼つきで見ている。だが、この老人に訊いたところで、恐らく彼もこの事実を知らないであろう。この事実を教えても、ただこの老人を愕かせあわてさせるだけに違いなかった。添田は、坊さんにそのことを言うのを止めた。
今日来た記念に、添田は自分の名前を書き終え、坊さんに礼を言って立ち去った。待たせてある車に戻るまで、やはり木の実が足の下で鳴った。添田はタクシーに入った。
「どちらへ?」
運転手は訊いた。添田は急に決心がつかなかった。が、彼は思い切って言った。
安居院 あんごいん へ行ってくれ」
方向はそれで決まった。
車は、稲の刈跡の田の面を見渡す平野の間を走った。
あの芳名帳の一枚を切り取った犯人は誰であろう?。
しかし、添田にはその人物の名がすでに頭にあった。
生駒山脈が平野の涯に流れていた。車は絶えず電車の軌道と並行して南下した。松林の中の法隆寺の塔も過ぎた。この平野に丘陵があるのは、大きな前方後円墳だった。
車、途中から、それまでの国道と離れた。道は狭いが、白壁の村の中に入った。小川が流れ、子供が魚を釣っていた。役場の前には「 明日香 あすか 村」と書かれていた。
その 聚落 しゅうらく を抜け切ると、再び道は寺院に突き当たる。さびれた塀と、瓦の上に草の生えた門とがあった。安居院だった。
再び広い道だった。車はそれを山の方に進んだ。
秋の色の濃いその山の正面に、橘寺の白い塀が高い石垣の上に載って見えはじめた。
2022/09/01
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