~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-07)
添田彰一は、大阪に引き返した。
その夜の十一時近くに出る急行「月光」に乗った。
一等車の座席に坐って、暗い車窓に流れて行く大阪の街の灯を見ていた。
安居院でも唐招提寺と同じ結果であった。だが、これは、予想していた結果だと言える。安居院では、芳名帳を寺務所の若い僧が出してくれた。添田はそれを繰った。確かに芦村節子の名前はあった。だが「田中孝一」の部分は、切り取らていたのだった。
ここでも添田は、特別に坊さんにそれを示さなかった。若い坊さんは芳名帳の一ページをまさか切り取る人間があろうとは考えてもいないような顔だった。
二つの寺ともそうだった。芦村節子が、その寺詣りしたときに見た「田中孝一」の筆蹟は誰かによって失われていた。
添田彰一は、雑木林のある暗い田圃の中で殺された人物を考えている。その人間こそ、この芳名帳の一ページを切り取った男だと思っている。
元軍人の雑貨屋伊東忠介は、最近のある日、その道楽として廻っている寺に「田中孝一」の著名を偶然発見したのであろう。それは、彼にとって忘れることの出来ない人物の筆蹟とそっくりだった。しかし、それだけではなかった。彼は、東京に出て来る前、再びどこかでその筆蹟の主に出遭ったのではなかろうか。
おそらく、その時、伊東忠介は何かの事情でその人物に話しかけることが出来なかったのであろう医。あるいは、対手の方に事情が会ったのかも知れない。が、とにかく、その人物を伊東忠介が目撃したことだけは確かなようである。
添田は汽車に揺られながら考えている。
伊東忠介は、ぜひ、その男にもう一度逢いたかったのだと思う。だが、対手は奈良から東京に帰ってしまった。しかい、伊東忠介にとっては、東京まで追っかけたて、ぜひ会わねばならなぬ相手だった。
そこで、伊東忠介は、独特の筆ぐせを持っているその人物の筆蹟を秘かに切り取った。そのことはあの養子の妻が話した通り、上京前の伊東忠介が急に何回となく寺廻りを始めていたという言葉でも、裏づけられるのだ。
では、東京に来た伊東忠介は、対手の人物のところに果して真直ぐに行ったのであろうか。品川の旅館の主人の話では、伊東忠介は、青山と田園調布の二ヶ所の地名を言っている。
では、青山に誰か居たのか。田園調布にどんな人物が居住しtれいるのか。サラリーマンはどこの会社に勤めているのか。
また、なぜ、伊東忠介はわざわざ旧い寺の芳名帳から、「田中孝一」の部分だけ切り取ったのであろうか。
そうだ。伊東忠介は、その切り取った部分をポケットの奥深く入れて上京したに違いない。
列車は、いつか京都を過ぎていた。大津の灯が、ちらちらと見えるころから、添田は浅い睡りに落ちた。
添田が眼を醒ましたのは、沼津あたりだった。時計を見ると、七時過ぎである。朝の海が薄いもやの中に霞んでいた。
添田がゆっくりと顔を洗い、座席に戻ったときは、長いトンネルの中に入っていた。
彼は煙草を出して火をつけた。あと二時間もすれば東京に着く。熱海駅のホームに停まったのが七時半だった。
このころから、眠っていた乗客がぼつぼつ眼を醒まして洗顔に立ったりした。
ホームから見える熱海の街は、朝の光りに小さな屋根がかがやいていた。
2022/09/03
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