~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-08)
この時、どやどやと車内に入って来た乗客の一団があった。十人ばかりだったが、その半分はゴルフ道具を持っていた。
添田が窓の方を見ていると、その中の一人が恰度ちょうど、空いている彼の前に腰を下ろした。持っているゴルフ道具を網棚に載せ、ゆったりと腰を掛けた。
添田とその新しい客との眼が合った。両方の顔に軽いおどろきが拡がった。
「これは」
添田の方から起ち上がった。現在、社を辞めてはいるが、元の幹部だった人だ。しかも、先日、訪問して話を聴いたばかりの人物だった。
「お早うございます。思いがけないところでお目にかかりました。先日はどうも」
添田は丁寧に挨拶した。
世界文化交流連盟常任理事、元編集局長滝良精氏は、ちょっと困ったような顔をした。先日添田が訪ねて来た時は、自分ながら冷たい待遇をしたのを、彼は憶えているのである。その櫛の目の揃った白髪とあから顔とは、外国人にも立ちまさっていそうに思われた。
彫の深い顔は、口許の微笑を曖昧に見せた。
「どうも」
会釈も曖昧である。きらりと眼鏡を光らせて、窓の方を向いたものである。
「随分、お早いですね」
添田は、その端正な横顔を見て言った。
「ええ」
気乗りのしない返辞である。
川奈かわなですか?」
添田は、少し意地悪くなっていた。先日のことがまだ胸にわだかまっている。それに、こぼ人とは、いずれもっと接触しなければならないだろう。その時の下ごころもあった。
「ええ、まあ」
相変わらずである。滝氏は、ポケットから葉巻を取り出して口にくわえた。添田は、逸早いちはやくライターを取り出して、滝氏の眼の前に音を立てた。
「有難う」
滝氏は、仕方がないというとうに彼の火を借りた。
「ゴルフをなさってお泊りになっても、こんな早い時間では、お疲れが取れないでしょうね」
添田は、なおも話しかけた。
「それほどでもないです」
愛嬌のない返辞だった。
「お仕事が忙しいので、やはりこういう時間にお乗りになるわけですね」
「ええ」
やはりぶっきらぼうだった。対手は明らかに添田と話したがらないようである。
滝氏は、やがて、きょろきょろと他の座席を見回した。生憎あいにくと座席はふさがっているようだった。滝氏は諦めたように首を戻した。今度は、添田からそれ以上話しかけられないように、葉巻の煙を盛んに上げながら本を読みはじめた。洋書である。
添田は、常任理事の俯向うつむいた顔を黙って見ていた。この人は、当時、野上顕一郎のいた中立国に派遣された徳派記者だった。
滝氏がしきりと煙草の煙幕を上げながら、彼から話しかけられないようにしているのは、先日、野上書記官の死のことで取材に行ったのをまだ敬遠しているように見えた。
しかし、滝良精氏の読書は長続きしなかった。滝氏自身も、添田を眼の前にしては落ち着かないらしい。彼は眼を上げると、
「失礼」
と、ぷいと席を立って行った。
よく見ると、べつに坐る所もないのに、友達の座席の肘掛ひじかけに身体を寄せながら、にこやかに談笑をはじめたのである。
2022/09/03
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