~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (06-09)
添田彰一が杉並の野上家を訪ねたのは、その午後だった。
恰度久美子が玄関に出た。
「あら、いらっしゃい」
添田を見て、彼女はにこにこ笑った。
「この間は失礼しましたわ」
添田がこの家に来た時、節子の家に居て逢えなかったのを詫びたのである。
彼女は、添田が歌舞伎座で自分たち母子おやこを遠くから凝視していたことを知らない。
「さあ、どうぞ。母もちょうど居ますわ」
久美子は奥に駈け込んだ。赤いワンピースの後ろ姿がひるがえるようだった。
添田が靴を脱ぎかけた時に、母の孝子が玄関に出た。
「まあ、どうぞ」
彼女は、添田を奥に迎え入れた。
通されたのは、この間の客間だった。久美子は茶の用意でもしているのか、そこに居なかった。
「今日は、久美子さん、お休みですか?」
「ええ、この間の日曜日が忙しくて出勤したものですから、代休を頂いたんだそうです」
「ああ、そうですか」
添田は、奈良に行ったことを、この母子にわざと匿していた。今、それを言うのは、少しなますぎた。
「添田さん、今日はごゆっくりあそばせよ」
孝子は、柔和な顔におだやかな微笑で勧めた。
「ええ、夕方までお邪魔させていただくつもりです」
「あら、もう少しごゆっくりなさっては。何もないんですが、夕御飯をご一緒にしましょうよ」
孝子は、添田を今から引き留めようとした。
久美子がコーヒーを運んで来た。
「そうそう」
と孝子は言った。
「この間の歌舞伎の切符、とうとう、わたしが久美子と参りましたの」
孝子は思い出したように言った。
「そうですか、それは結構でした」
添田は何となくくすぐったかった。
「面白かったわ。歌舞伎、久しぶりなんですもの。お席もちゃんといい所でしたわ」
久美子が言いかけたが、
「ねえ、お母さま。あの切符を送っていただいた方、まだ判りませんの?」
と訊いた。
「さあ、どうでしょうね」
孝子は実際判らないらしかった。
「妙ね。どうせお父さまの昔のお知り合いの方でしょうけれど、お名前が判らないで御好意を受けるのは、なんだかいやね」
久美子は、ちょっと味気なさそうな顔をした。
「それはやっぱり御主人のお知り合いの方でしょうね。というよりも、前に、御主人に恩義のあった方かも知れませんね」
「どうせ大したことではなかったに違いありませんが、いつまでの昔のことを考えて下さって有難いわ」
「いやあね、お母さま」
横から、黙って聞いていた久美子が口を出した。
「お父さまのことはお父さまのことよ。わたしたちがいつまでもその御厚意を受けてるのは先方の方のお名前が判らないだけに、いやだわ。なんだか匿名で、始終、援助を受けてるみおたい」
その気持ちは、添田にも分からないではなかった。
母子の話を聴いているうちに、添田は、この母子がまだ新聞で伊東忠介の死を知っていないことが判った。が、新聞を読んで気づかないのか、読んでいても伊東忠介という名前を知っていないのか、そのへんの疑問が添田に起った。
「突然、妙なことをおたずねしますが」
と添田は言った。
「お母さまは、伊東忠介さんという人をご存じないでしょうか?」
「伊東忠介さま?」
「そうなんです。元、御主人と同じ公使館に勤めておられた武官の方ですが」
「さあ、存じませんわ。主人は、あまりそのようなことを手紙に書いて来ませんでしたから。ですが、何か、その伊東さんとおっしゃる方が?」
「いや、べつに」
添田は、そこで話を打ち切った。
2022/09/04
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