~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-01)
翌日、庶務課から新しい社員名簿が配られた。
社員名簿は十月一日現在となっている。誰しも新しい名簿を手に取ると、一応、珍しそうに手に取って見るものだ。自分の名前の活字から先に見る者もある。
この社員名簿は、R新聞社の役員から嘱託に至るまで全部収録されていた。巻末には、すでに定年で退職して客員待遇になった人たちもついていた。
一年一回のこの名簿には、その間のさまざまな人事の変遷が現われている。本社から地方に転勤になった者もいれば、部署が変わった者もいる。名簿を手に取って見て、その異動のあとを一種の感慨をもって眺めるのである。
添田彰一も、その名簿を漠然と繰っていた。恰度、仕事のすいた時間だった。部によっては、去年とそのままの者もあれば、ひどく変動のあった分もある。先輩や同僚の名前を一冊の本にまとめて見ているのは、身近で愉しかった。
添田は、ひと通り繰って、最後に、巻末に付いている客員の部を何気なく開いた。それは、ついでに眺めたというだけだった。
客員は、部長以上の身分で定年になった人が一種の礼遇れいぐうとして扱われている。中にはすでに社会的に有名な人も居た。
添田はならんだ活字を見ているうちに、ふと、最近、一番身近になっている名前を見出した。滝良精氏である。この三つの字面じづらを眺めている、この間、汽車の中で出会った迷惑そうな氏の顔が泛ぶ。永らく外国の特派員をやっていただけに、見なりも洗練されていたが、顔立ちも日本人離れがしていた。白髪の混じった髪はきれいに手入れがなされ、彫の深い顔は縁無眼鏡が
よく似合った。唇は薄く、両端がぐっとしまって見えるところなど、この人の特徴だった。
── 東京都大田区田園調布三の五七一
田園調布に住んでいるのか、と添田は思った。
が、次の瞬間、彼は心の中であっと叫んだ。活字をもう一度見つめた。
「田園調布 ──」
伊東忠介が品川の宿屋に泊まって外出した先の一つではないか。あの旅館の主人筒井源三郎は、伊東忠介が、「田園調布と青山に行って来る」と言っていたと述べている。
田園調布とだけで、すぐに滝良精氏と結びつけるのは早いかも知れないが、添田は、伊東忠介の訪ねた先が滝氏宅のような気がしてならなかった。
根拠があるのだ、滝氏は、戦争末期、ヨーロッパの中立国の特派員だった。伊東忠介もその駐在武官だった。両人の間は、当然、面識以上である。或いは毎日顔を合わし、情報を交換していたかも知れない。食事だってたびたび一緒にしたことであろう。
そうだ、伊東忠介は滝良精氏を訪ねたに違いない。伊東忠介が奈良から出て来て、東京に着いたあくる日、真直ぐに田園調布に行ったのは、滝良精氏への面会以外には考えられないのである。
もし、田園調布に、伊東忠介の親戚か友人が住んでいたら、奈良を出発する時、彼は家族にもそう告げるだろうし、また、その家に泊まり、宿屋住まいなどはしなかったであろう。田園調布の訪問先は、その家に彼が泊まるほど親しくはなく、しかも上京したあくる日に、真直ぐに訪ねたぐらい重要な用件があったのである。
重要なという意味は、これは伊東忠介の上京の目的に繋がる。彼は奈良の古い寺で、野上顕一郎の筆蹟によく似た文字を発見した。筆蹟だけではなく、彼はその当人を、見かけたのではあるまいか。だから、彼の上京の目的は、その人物に会うためではなかろうか。

しかし伊東忠介には、その人物の住所はよく分からなかった。そこで、当人については共通の友人だった滝良精氏を訪問した。、という仮定は無理ではあるまい。滝良精氏と伊東忠介尾とは、外国地代、かなり親密に交際したが、滝氏の家に泊まるほどの仲ではなかった。それだけの距離を滝良精氏は伊東忠介に置いていたのであろう。そう考えると、いかにもそれは滝良静氏の性格に合致しそうだった。
添田は興奮した。
彼は椅子を立って無意味に歩き出した。
こうなると、もう一つの実証が欲しくなる。彼は調査室に入った。
「最近の職員録を見せて下さい」
調査部の係に頼んだ。係は分厚い本をすぐに出してくれた。
添田は片隅に行って、それを開いた。外務省関係である。欧亜局の部をすぐに探し出した。
「欧亜局××課長村尾芳生、自宅、港区青山南町六の七四一」
伊東忠介が訪ねたのは「田園調布と青山」だったが、まさに滝良精氏と、村尾欧亜局××課長だったのだ。
村尾芳生は、当時の中立国の外交官補だった。もちろん公使館付武官だった伊東忠介とは同僚である。また滝良精とも知合いだ。野上顕一郎一等書記官を中心にしてこお四人は、互いに生命の危険に曝されながら仕事をしてきた間柄である。伊東忠介が村尾芳生を訪ねたのは、滝良生氏を訪問したと同じ目的と意味があったのだ。──
添田彰一は、調査室を出ながら興奮していた。
彼がすぐに考えたのは、滝氏と村尾課長とに面会して、「伊東忠介という元武官が訪ねてみえられたでしょう?」という質問をすることだった。
だが、それで両人の反応は判るとしても、この質問に対手が正常に答えてくれるとは思えなかった。だから、、これを切り出すのにはまだ早いのである。かえってこの二人に警戒心を起させるだけだ。今それを言い出しては効果が薄いのだ。切り出すのにはもっと有効な時機を選んだ方がいい、と考え直した。
添田彰一は、伊東忠介が上京した直後この二人を訪ねて、何を話したかを、まだぼんやりとだが、頭の中でkたちが出来るような気がした。
ところで、滝氏も村尾課長も、伊東忠介が殺害されたという記事を新聞で読んでいるに違いない。しかし、恐らく、二人とも捜査本部にその協力を申し込むことはないであろう。
二人は、伊東忠介の訪問を受けている。それは間違いないのだ。
その時の話の内容は何であったっか分からないが、とにかく、この二人に面会した伊東忠介は、あとで世田谷区××町の くさむら の中に死体となって現われた。彼が殺されたのは二人の訪問と直接に関係があるかどうかは不明だが、しかし、まるきり無交渉とは思われない。少なくとも、伊東忠介の上京の目的は、彼の悲惨な死に何らかの因果関係の かげ を落としていると思われる。
2022/09/04
Next