~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-02)
添田彰一は、品川の旅館筒居屋を訪ねた。
冷たい風が吹き、ほこりの立つ日だった。井筒屋の表では、女中が雑巾ぞうきんがけをしていた。
「御主人は居ますか?」
添田が訊くと、女中は彼の顔を見憶えていた。
「いらっしゃいます」
女中は雑巾をバケツに漬けたまま奥に入った。
待つ間もなく、どうぞ、と言って中に案内された。この前来た時と同じように、階段の脇の応接室みたいな部屋に入った。
主人はすぐに出て来たが、今日は背広を着ている。
「またお邪魔にあがりました」
添田は挨拶した。
「ようこそ」
主人の筒井源三郎は、客商売だけに愛想がよかった。いやな顔をしないで、茶や菓子などを女中に運ばせた。
「どこかにお出かけですか?」
添田は背広姿の主人を見て訊いた。
「なに、旅館組合の総会がありますのでね、ちょうど、今からぶらぶらと出向いて行こうかと思っていたところです」
「それはお出かけのところすみませんね。お急ぎでしたら、車を持って来てますから、途中までご一緒し、車の中で伺ってもいいんですが」
「いや、それには及びません。なに、まだ時間はありますから、大丈夫です。今日はどういう御用事ですか?」
主人は顔に皺をよせて笑った。
「何度もすみませんが、こないだの伊東さんの一件です」
「ははあ、さすがに新聞社の方は御熱心ですね。いや、あれにはわたしもちと迷惑してるところです」
宿の主人は笑いを消すと、今度は眉の間に立皺をつくった。
「刑事さんなんか何度も見えましてね、いろいろ訊かれました。それに、あの伊東さんの息子さんとかが関西の方から見えたりして、当座、落着きませんでした。わたしのうちで亡くなったのではありませんが、やはりそんな係り合いになると、あまり気持のいいもんではありませんね」
「その気持のよくない話で伺って恐縮なんですが」
添田は切り出した。
「伊東さんがこちらにお泊りになったあくる日に、訪ねて行く先は田園調布と青山だとお話におなったそうですが、しれは間違いないでしょうね」
重大なことだけに、添田は念を押した。
「はあ、それは間違いありません。係の女中がはっきり聞いていますからね」
「ああ、そうですか」
添田はこれで確証を得た。
「また前の話のむし返しになりますが、こちらに泊まられた伊東さん、何か様子に不審なところはありませんでしたか?」
「そうですね、わたしはその伊東さんに直接お目にかかったのではないので、詳しいことは知りません。しかし、係の女中に訊いても、べつにおかしなところはなかったようです。それもさんざん警察から訊かれましたがね」
「何かこう沈んでいるとか、物思いにふけっているとかいうようなことはありませんでしたか?」
「今言った通り、わたしはいつも奥に引っ込んでいるの、そういう点は分かりかねます。なんでしたら、係の女中を呼びましょうか?」
主人は言ってくれた。
「はあ、そう願えれば有難いで」
「しかし、それも警察の方でずいぶん調べたことなんですよ。その点も何も出なかったようです」
それはそうかも知れなかった。警察では、被害者の様子から犯人の推定をつけようとしたに違いない。この主人の言う通り、何か変わったことがあれば警察に報告されたであろう。それがないというのは、女中の申し立ても主人の言葉通りに違いなかった。
しかし、添田は、一応、その女中に会いたかった。それを言うと、主人は快く承知した。
「では、すぐここに呼びます。わたしは今言ったように組合の総会に出なければならないので、これで失礼させていただきます」
「どうぞ、どうもお引止めしてすみませんでした」
「またどうぞお遊びにおいで下さい」
頭髪が半白になっている主人の筒井源三郎は、客商売らしく丁寧にお辞儀をして出て行った。
2022/09/05
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