~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (上) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (07-03)
殆ど入れ違いに係だったという女中が入って来た。
そtれがたった今表で掃除をしていた女だった。よく肥えていて、背が低い。
「あなたでしたか? 亡くなったお客さんの当番だったのは」
添田は微笑しながら訊いた。
「はい」
女中は少し赤くなってうつむいた。
「今。、御主人にも伺ったが、警察の人も来ていろいろ訊いたそうですね。どうですか。その伊東さんには変わった様子はやはりなかったですか?」
「気が付きませんでした」
女中は添田の顔を見ないようにして答えた。
「その日は、ちょっと忙しかったものですから、あのお客さんの部屋にはあまり伺えませんでした。それにずっとお出かけでしたし、夕食も外で召しあがったということでしたし。べつにおかしな様子はありませんでした」
「どこかに電話をかけるとか、先方からかかって来るとか、そういうことは、なかったでしょうね?」
「ありませんでした。ただ、東京の地図を買って来て下さい、と言われました」
「地図?」
それは初耳だった。
「あなたが買って来てあげたわけですね。その時、お客さんは地図のどこを調べていましたか?」
「いいえ、ただ差し上げただけで、すぐ降りましたから、あとのことは知りません」
伊東忠介は東京都内には詳しくないらしい。地図を買って来たのは、青山と田園調布とを調べるためだったのかも知れない。
だが、不思議なことがある。東京都内に詳しくない伊東忠介が、なぜ、世田谷の奥の寂しい場所で死んでいたか。ひとりでそこへ行ったとは考えられない。添田は、自分のかねての推定がだんだんはっきりして来るのを感じた。
「あなたがそのお客さんの部屋に入った時、お客さんは何か紙切れなどを取り出していませんでしたか?」
「紙切れですか?」
女中は不審そうな眼つきをした。
「いや。これは言い方が悪かったかも知れません。つまり、墨で書いたものを出していたようなことはありませんか? それは芳名帳のようなものです。ほら、よくお寺などに参詣した人が、自分の名前を筆で書くでしょう、ああいったものです」
「さあ」
女中は眼を伏せて考えているようだったが、
「いいえ、それは見ませんでした。新聞を見せてくれ、と言われたので、持って行ったことがありますが」
添田は煙草を喫いながら考えたが、もうそれ以上訊くことはなさそうだった。
「どうも有難う」
添田は、無理に幾らかの心づけを彼女に与えて、応接間を出た。
2022/09/06
Next